それから二夜明けた、高山の病室では。

 高山は体を起こし自分で着替えられるまでに回復していた。一時は意識不明まで陥ったのに。

 更に、少しの範囲なら歩き回れるという。

 医者たちは皆、奇跡を口にするしかなかった。

 

 それでも重いものは食べられないからと、当分の栄養は点滴と塩粥、果物だけ。

 今もそばにいる、彩に林檎を剥いてもらっている。ベッドの上の高山は窓の外を見ていた。

 ただ無心に空を見ているだけではない。何か思うところあり、だった。

「彩」

 何かを決した高山は呼んだ名と共に視線を戻した。林檎は彼女なりの茶目っ気で兎の形に切られたところだった。彩はそれを皿に盛り、笑顔で差し出す。

 しかしその笑顔が一気に崩れてしまった。

 堅固たる意志を秘めた眉と、まっすぐな瞳。真面目な顔を前にして、誰が笑えるだろうか。

「彩、前に言うてたよな? 親父に会うたって。親父もここに入院してるんよな?」

 彩はうなずいた。事実だったから。

「それで、頼みがあんねん。俺――」

 彼から切り出された話。それは彼女の顔も心も一気に晴らしていった。

 心の快晴は、彼女を饒舌にしていった。

 

 

 高山の部屋とも、今まで梓の父親が使用していた部屋とも、方角も階層も違う静かな病室。

 一つしかないベッドの上には、男性が一人。艶やかだった黒髪はすっかり色が抜け落ち、顔には年齢以上の皺が寄っている。目にも口元にも、以前政治家として手腕を振るっていた頃の威厳も力も無い。

 力入らぬ体を起こし、前を見ている。『見ている』とはあくまで一番良い表現をしたものであって、実際にはその眼にも力は残されていない。

 それ故に看病で付き添う最愛の妻の姿も、その目には映っていない。

 妻はその事実に一人、涙したこともあった。

 妻の思いなど知る由も無く、男性はただ、言葉を覚え始めた子供のように「かい……かい……」と繰り返すばかりだった。もちろん言葉の自覚が無く、その単語が何を意味しているのかなど分かるはずも無かった。

 そして、今も。絶望に涙しそうになった妻の耳に、扉をノックする音が聞こえる。

 自分を奮い立たせ、扉を開いた。

 扉の向こうに立っている人物を確認したその時、妻は一筋の涙を零した。絶望? 違う、今の彼女を支配しているのは希望。

 最初は夢かと疑った。しかし、今が現実であることは嫌というほど思い知らされている。

 自分の涙に途惑う人物を、妻は涙を拭い中に入れた。

 人物の堅固たる意志を秘めた眉も、強い眼差しを湛える瞳も、悲しみに垂れた。開かれた扉にも入ってきた自分にも無反応で、腑抜けに前を向いているだけの男性を見て、何かを感じずにはいられなかった。

 今ではすっかり金髪に染められてしまった、親譲りの黒髪。人物は自分を落ちつかせる為に掻き揚げると、静かにベッドへと歩む。

 まだ男性は、うわ言を繰り返している。

「親父」

 たとえ自分の姿が分からなくてもよかった。人物、もとい高山は、体に障らないように気遣い自分の顔を父親へ持っていく。

「俺が分かるか? あなたの息子の高山海です」

 もう、父親は自分の名を呼んでいない。

「親父……こんなん、俺が言える科白やないって分かりきってるけど。

 死ぬな。

 死なないでくれ。

 会わせたい人がおんねんから。変わるきっかけを作ってくれた人たち、大切に想ってくれている人たち、信頼を寄せている人たち、そして、生涯を懸けて守りたいって誓った人に」

 父親は、一つ瞬きをした。ここへ来て初めての。

 そして首を縦に振ったようにも見えたがあまりに弱々しく、一番近くにいた息子も、部屋の隅に控えていた妻の文も、誰も気がつかなかったという。