男の子の姿はもう無い。

 気がつけば彩も、その顔をベッドに伏せ眠っていた。

 窓から射す光が心地よくて。それが彼女の目を覚ました。

 いけない、寝ちゃった。寝ぼけ眼を擦り、顔を上げる。

「おはよう、彩ちゃん」

 一気に目が覚めた。そこに、彼女がずっと思い描く望みのものがあったから。

 今の笑顔も心も、窓から見える青空のように明るい。自然と涙も零れ落ち、大好きな彼へと。

 彼もまた彼女を抱き締め、その手も堅く繋がれる。

 

 

 その後、ホープ社長は高山解雇を撤回せざるを得なくなってしまった。

 高山を辞めさせれば他の三人も辞めてしまう。たった一人なら痛くも痒くもなかったのに。主力もとい全員がいなくなれば、事実上ホープは崩壊となってしまうわけだから。

 三人は勝利を噛み締め、ハイタッチを交わした。そして真っ先に戻るは彼の元。

 わき目を振ることなく部屋に辿り着いても、その扉を開くなど野暮な真似はしなかった。

 藤井は扉に寄り掛かり、薄らと赤く頬を染めて少々苦めの笑顔を作る。森下は本当に嬉しそうだ。

 だがここに、伊藤の姿は無い。

 

 一方、高山の部屋とは階層も違う、病室の前では。

 静かに閉じられた扉を前に、いつになく真剣な表情の伊藤がいる。その隣には、控えるようにして梓が立つ。骨張った逞しい大きな手と、小さな白い手が強く握られている。

 これから梓の夢を叶えようとしている。意を決した大きな手が、運命の扉を開いた。

 そこにはいつものように穏やかな、梓の父親の姿があった。

 今にも天に召されてしまいそうなほど穏やかな笑顔。

 二人とも臆することなく、凛と前を見ていた。

「お父さん」

 梓もまたそれを受け継いだ穏やかな笑顔で、言葉を覚えた時からずっとそうしてきたように父親を呼んだ。

「おじさん、いえお父さん」

 対して伊藤は真面目な顔を崩さない。

「娘さんは、梓は、俺が絶対に幸せにします」

 そして神妙に、世界で一番真剣な一字一句を紡ぎ出す。

 その前には、梓の父親ただ一人しかいない。梓の父親は、幸せに満たされた二人を、心や血管という自分を形成するもの全てに強く刻み込んだ。

 純白の衣装も無いけれど、左手薬指の指輪も無いけれど。

 繋いだ手の暖かさを、二人の誓いのリングとして。

 梓の父親はにこやかに笑い、うなずいた。特に伊藤には、もう一度うなずく。

 それから程無くして、苦悶の表情へと変わっていく。あまりの苦しさに、胸を抑えてしまった。

 慌てることなく冷静に、梓はナースコールを押した。隣の伊藤の額から汗がじんわりと出る。

 ドキュメントでしか見られない機材と共に来た看護師と医者を、手招きする。

 伊藤と梓は部屋の隅に追いやられた。看護師たちが機械の準備を進め、医者が梓の父親に確認を取る。覚悟を決めていましたと言う代わりに、強くうなずくだけだった。

 機械の無数の管が梓の父親の体に取り付けられる。

 部屋の隅の伊藤たちは、ただ棒立ちになってそれを見るしかなかった。

 看護師の手が、機械のスイッチへと伸びる。

 不安を覚えた伊藤は、思わず梓の横顔を見てしまった。

 だが、梓は目を逸らすでもなくまっすぐ前を見ている。その目からは、強い意志を感じられる。

 これから、父親の思いを叶えようとしているのに。

 梓は全てを受け入れていた。

 初めは、ショックで気持ちが高ぶり何も考えられなかった。それ故に父親の本心に気付くことができなかった。

 だがあの時、伊藤の暖かさに触れてから静まっていった。そして、全てを理解することができた。

 あの後、梓は母親から聞かされた。自分が伊藤と結婚は元より同棲もしなかった理由を、父親が知っていたことを。

 昔から我慢強い娘だったからこそ、幸せにしてやりたい。娘を本気で想ってくれる人物に託して、幸せに満ちたその姿を見たい。そして、最後に自分も極上の幸せに満たされたまま――。

 それが、父親の本心だった、と。

 梓は、依然として凛と前を見つめている。伊藤も絶対に逃げないと誓った。

 管から、薬が流しこまれる。だが父親には苦悶の表情は無い。

 梓は見ていた。この世に生まれ落ちた瞬間からずっと見続けた、穏やかな笑顔を。

 本心のままに、眠りにつくことができた。

 こうして今、繋いだ手の暖かさを感じ取ることができた。

 幸せだった、と胸を張って言える。

 ――ありがとう、お父さん。

 

 

「梓」

 それから程無くして、二人は病室から追い出された。

「これから親父さんの葬儀もあるし、大変なのに今こんなこと言うのも何やけど……」

 その廊下で。一気に感情の波が押し寄せて目が潤む梓を前にして、伊藤が神妙に口を開いた。

「俺の実家に一緒に来てくれ。親父に会わせたいねん」

 梓はカッと目を見開いた。だがそれも一瞬でしかなく。静かに、黙ってうなずいた。

 その姿は、一家の主たる夫から三歩下がって後ろを歩く、古き良き日本の妻を思わせた。