一方。現在のホープ社屋、社長室では。
「どうしてそうなるんですか!」
伊藤の、より迫力を増した怒号が弾け飛んだ。
その腕力で机を叩き、机上の電話がひっくり返る。それに呼応し、社屋全体が微震に襲われたかの如く揺れた。
「こんなん理不尽やないですか!」
更にその後には、負けず劣らずの迫力が込められた二つの視線があった。
「暴力事件、ドタキャン、そして自殺未遂。更には」
それを一身に受けることとなったホープ社長は、机の振動と三つの視線に戦き一瞬だけ冷汗を垂らしたがすぐに拭ってしまった。間もなく三人が手にした雑誌の、あのページを開き無感覚に言い放った。
「熱愛まで発覚してるみたいやしな。これやともうあいつは使い物にならん」
あいつとは言うまでも無く、高山のことである。
一時間ほど前のことだった。三人がホープ社屋に辿り着いたのは。
いつものようにスケジュール確認や打ち合わせで来た訳ではないことなど、受付の人間でも察することができた。
三人がまるで、忠臣蔵の赤穂浪士のようにずんと構えていたから。
それ故に他の一般社員たちでさえ三人を警戒し、恐れるようになった。
だが三人は周りに目をくれることなく、社長室だけを目指して歩いていた。
進路上で行く手を塞ぐ社員を、止めに入った警備員も、部屋の入口前で立ち塞がる秘書をも撥ね退ける。扉を勢い良く開き、烈火の如き形相の伊藤が直談判を切り出したことにより始まった。
「しかし、その熱愛のお相手がうちのバイトの女の子やったとは。あの子も隅に置けんな」
社長は両手で頬杖をつき、動揺も全く見せずにいる。
完全になめられている、としか言えなくて。三人に焦りの色が見えている。特にそれが強いのは、三人のリーダーとなって高山を庇う伊藤だ。まだ机上にある手の、震えが止まらない。
「あの子は最初からうちの商品目当てにバイトとして潜りこんだのかもしれへんな。それならいっそのことあの子も、わしの愛人候補にでも入れよう……」
「彩ちゃんはそんな子やない! ふざけるな!」
森下が一歩前に出て、彩に対する侮辱を種火として怒りを爆発させる。
平和主義者故に滅多に見せることの無かった怒りの形相。それにも全く他の二人は動揺を見せることはなかった。それよりも今は、目先の問題だけ。
社長が不意に放った単語『商品』。それは無論病院で眠れる彼をも指している。伊藤の、藤井の、森下の、怒りの起爆剤となる。
怒れる三つの視線を前にしてもなお、社長はどんと構えている。その目が自分たちを見下しているようにも見えて。
――屈辱。
藤井と森下が屈辱に打ちひしがれ、拳をぐっと握り締めて震えるしかなかったその時。
伊藤が懐から封筒を一つ、轟音と共に机上に叩きつけた――。
「そんなら、こんな事務所辞めたる」
他の二人がえっ? と一つ洩らすもすぐに体勢を立て直した。
「こんな、人を人とも思わん社長の下で働けるわけないやろ」
そこで、初めて社長の眉が動いた。
「そ、そんな。伊藤くんキミなあ、ここ辞めてどこでどうモデル活動を続けるっていうねん。ここ以外やったら満足な仕事も収入も得られへんやろ? 彼女に苦労させるだけやで?」
たとえ口調が冷静でも、明らかに動揺の色を隠せていない。皺がくっきりとついた年齢相応の顔がハンカチで拭えぬほどの冷や汗に満たされる。
彼女の名前まで引っ張り出すなんて卑怯な。必死の反撃も、伊藤の顔を強張らせてしまうだけに終わった。
そこに更なる一撃を加えようと藤井が前に出る。
「それなら、俺も辞めさせてもらいます」
「ふ、藤井! 何もお前まで辞めんてもええやんか。人気も実力もホープのエース級のお前が」
「俺の時は泣き付いてまで引き止めたくせに。そんなんおかしい! 差別すんな。この、最低野郎!」
掌を返して冷たくなった藤井を、子供のように駄々をこね泣き付いてまで引き止める。
藤井には以前自殺を図ったが奇跡的に助かった数日後に、ホープのイメージを傷つけるわけにはいかないと社長に引退を申し出たという過去がある。その時はまるで今と同じ、子供のように泣き付き腹を切るとまで言われた。更には伊藤たちにも説得されて引退を思い止まったわけだが。
藤井は思った。あの時と同じやないかい。そして、この人はどこまで落ちれば気が済むねん、と。
流石に今回は呆れが勝ち、振り解いてしまった。
「僕だって!」
森下のとどめの一撃に、崖っ縁に立たされた社長は顔面蒼白になり、最後にはムンクの『叫び』を模写したも同然の姿へと変わっていった。
「そ、そんな! そんな……殺生な。主力陣に一斉に辞められたら、ホープは……わしは、わしは、破滅やー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー!」
◆
呪縛からようやく解放された彩は左手で胸を抑え、はっはっと一つ一つ確かめるように呼吸する。
流れ込んできた映像の、記憶の持ち主。
始めのもしやとしか思っていなかった時はドラマを見る感じで肩の力を抜いていた。しかし確信へと変わった時、その一つ一つが重く感じられて。
胸が、痛かった。針で突付かれたような生易しいものではなく、強靭なる拳で数発殴られたような激痛に襲われた。
まだ定まらぬ視線を落とせば男の子は目や顔色の全てが元に戻り、もう自分を睨んでいない。
一転し、いつか見た悲しい表情へと。今にも泣き出してしまいそうだった。
「大丈夫」
彩は、無意識的に言葉を紡いでいた。
「大丈夫だから」
しかし、今度は分かっていた。
『彼』から手を離すと、今度は小さな『彼』を抱き締める。
その手で、『彼』の黒い髪を優しく撫でた。
「大丈夫だよ……」
拒んでいたのも少しだけ。男の子は指一本も動かさなかった。
「大丈夫。伊藤さんも、藤井さんも、森下さんも、おじさんもおばさんも。そして、私も」
大好きだから。心配しているから。あなたを、みんなを、信じているから。
そして、あなたもみんなを信頼し、大好きなんでしょう?
この手の暖かさが、そして歩んできた道程が、何よりの証拠。
『彼』は、赤ん坊のように泣き出した。
小さな『彼』に薄らと大きな『彼』の姿が重なる。大きな『彼』の目からも、涙が零れる。
『彼』はただただ泣きじゃくり、震えるだけだった。
聖母が人々を愛しむような柔らかな笑顔で、彩は『彼』を抱き締め続けた。そして何より、その手を離すことも無かった。