大好きな、信頼している兄貴分との約束を果たす為に。とはいえ憂鬱気味にその後ろを付いて歩いていた。
確かに事務所に行くだけ行ってみるとは言うたけど。一歩一歩が、憂鬱を膨らませる。
足取りもどことなく重くなっていく。今彼の足を動かしているのはあの一言が見出してくれた自信だけだったと言える。
憂鬱に頭を垂らして歩いていた為にしっかりと前が見えていなかった。自分の体を(高山は永井より頭一つ分背が高かった)急に歩みを止めた永井の背中にぶつける結果となってしまう。
その背中がエアバッグと同じ働きになって衝撃は少ない。体を全く擦ることなく頭を上げる。
大きさや築状態、どう贔屓目に見ても中堅程度にしか見えないビル。それが、目の前にあった。しかし今の高山の心理状態からすれば、それがどっしりと構えて見る者に威圧を与える怪物に見えてしまう。
外観から察するに、四階建てでそんなに広くはない。ダークグレーと壁も暗く、それらがこのビルの評価を下げているのか。
しかし顔である玄関への拘りようが嫌というほど伝わってくる。ガラス張りの扉は綺麗に磨かれ自分たちの姿がくっきりと映されている。あまりに磨かれすぎて存在しないようにも見えたが、頭をぶつけるという凡ミス発生を防ぐ為に取っ手がつけられている。
しかし今の高山がビルへと入る際にどうなったかなど、語るまでもないだろう。
対して永井は流石に慣れがあり、冷静に入っていった。高山は計り知れない不安を伴として後をついて歩くのみだった。
受付で手続きを済ませてから歩いて、エレベーターにも乗って、またしばらく歩いて。
不安こそもうないが、自覚は無いまま、高山は応接室のソファに座っていた。
今社長や他の重役を呼んでくるから待っていてくれと永井も出ていってしまった為に、一人で。
まだふわふわと夢を見ているようだった。ソファの感触も手伝ってか。
待っていてくれという永井の言いつけを、徐々に沸き起こる興味や衝動故に守りきれそうもなく。かと言ってここを出てもまた戻ってくる自信もない。
他にすることもなく、室内を見るしかなかった。
知也兄ぃはあの喫茶店で確かに言っていた。現在の勤務先である『ホープ』は規模が小さい、と。
――どこがやねん。
視線を上げれば、高名な画家に描かれたものだと素人でも分かる絵画がある。力強さを与える書もある。いずれも豪華絢爛な額に納められていた。更にその下の、棚には一級の芸術品の味をぷんぷんと匂わせる壷が置かれている。
それらの集合体は悪趣味な雰囲気を醸し出しているのかもしれない。
しかしこの応接室だけでも相当なお金が掛かっていそうだと、場慣れをしていない者にとっては緊張をより高める結果になってしまうだろう。
だが高山は違った。
どっかと椅子に深く腰をかけ、鼻歌まで出てくる始末。悠然とした余裕が感じられ、態度だけなら重役クラスといったところか。
もしかしたら空元気なのかもしれない。しかし(演じていた節があるとはいえ)お調子者だったという経歴を考えればこれも天然であると察するのが一番自然か。
鼻歌交じりに待ち惚け、やがて聞こえてきたノック音にも気だるそうにおうと返す。
しゃきっと座り直すことも起立することもなく姿勢も態度もそのままに、開かれた扉の先の人物を迎えた。永井、身長だけが成長しひょろひょろとした体格だが貫禄を感じさせる男性、ひょろひょろの男性ほどではないが立派であるスーツに身を包んだ男性。その引き攣った三つの顔に全く構うこともなく。
だが永井は仕事を忘れておらず、すぐさま顔を引き締めまず二人を入れ、最後に自分で丁寧に扉を閉める。
向かいの席に立つ二人の男性を、高山は暢気に見るばかりだった。ひょろひょろの男性が咳き込むも、やはりそれを見るばかりで。
男性二人は挨拶を交わそうと思っているのに。それが伝わらぬ上に高山の態度が目に余り、次第に顔が強張っていく。
理由が自分にあると知らない高山はまたも暢気に、欠伸まで出てくる始末だった。隣に来た永井に軽く肘で小突かれて渋々起立し挨拶をした。それもまた礼儀が微塵にも込められてなく鼻につく。
遂にこの気まずい状況に耐えられなくなった永井が高山に耳打ちをする。
「海くん、この方はホープの社長と秘書さんやで」
それにも拘わらず、ふうん、そうなん? よろしく。と、ぶっきらぼう且つ無礼は変わらぬ有様。
再びどっかと椅子に腰掛ける高山の横で、永井は胃に当たる部分を擦った。
男性二人、社長と秘書が冷静に着席したのが、不幸中の幸いか。
特に大事に発展することもなく、話し合いは始まった。
それから十分ほど経ったというのに、高山の態度は全く改善の兆しが見られない。これからの活動内容に関する話にだけは真剣に耳を傾けているが、それ以外にはまるで他人事だというのが頬杖をつきながらという仕草だけでも分かってしまう。
前にした二人の表情も、声色も、たまらなく険悪で。
しかしここまで何事も無く話は進んでいた。その事実だけが、永井の救いとなった。しかし。
「はーい、もう終わりですよね?」
高山が唐突に言い放ったことで思った。自分は完全に神に見放されてしまった、と。
隣はそんな冷汗に全く気付く様子なく、終わり終わりとぱんぱん手を叩き勝手にお開きにさせようとする。煙草に火まで付け、ふうと煙まで吐き出した。
ここは禁煙やで。そう言えばいいのは分かっているのに。とても言えなかった。
しかし高山もやりたくてやっていたわけではない。ただ話し合いの中での、二人の態度が気に食わなくて。自分を確実に、不良少年としか見ていなかったから。それが無性に腹立たしかった。
そうとも知らず社長と秘書は厳しく、顔をしかめた。しかもその顔で、永井を睨んでいる。
もう終わりだ。永井は煙に顔を撫でられながら、心の中で十字を切った。
永井だけが顔を俯かせ、それでも神に縋るより他ならなかったその時。社長と秘書はノックされた扉に興味を引かれていた。高山はマイペースを保っている。
社長の返事の後、静かで丁寧に扉は開かれた。
「失礼します」
重み且つ迫力のある声。それに自然と永井の顔も上がる。
黒い髪、堅い意志と力強さを秘めた眉や目、筋骨隆々で逆三角形の長身がそこにあった。
それらの持ち主である男性は黙々と一礼し、歩み寄る。全てに寡黙さを保ち、『冷静』という言葉は彼の為にあると言えた。
「伊藤くん」
永井は泣きを含み上擦りながらも自然と名前を呼んでいた。父親に縋るしかない子供そのままに。
しかし伊藤と呼ばれた男性の視線は永井には無い。自分を縋ってくるその手も振り払って。どっかと腰掛けここで一番偉いのは自分であるかの如く構えた、暢気に煙草を吸う高山へと向けられていた。その視線に鋭く、恐ろしいまでの怒りの炎を宿す。
次の瞬間、社長も、秘書も、永井も、当事者であるはずの高山も、動けなかった。
にゅっと伸びた伊藤の手が火の付いた煙草を掴み、高山の口から疾風の如く引っ手繰っていたからだ。
自分の中の炎を掻き消したいかのように、まだ火が付いている筈の煙草を握り締めた。
高山は金魚のように口を数回ぱくぱくさせていたが、突然何かが吹っ切れた。舌打ちと共にすくっと機敏に立ち上がり、伊藤に眼を飛ばした。
しかし伊藤も負けていない。口はぎゅっと噤み、眉も鋭く、完全に目が座り、それに宿された炎は冷たく、しかし勢いは比にもならない。
双方の、無言の睨み合いが続いた。しかし。
「いきなり何すんねん」
投げかけられた言葉は、小石となって張り詰めた空気に大きな波紋を残すことになるのか。
「お前、あれが見えんのか?」
あくまで冷静を保っていた伊藤が指差した先には『室内禁煙』と煙草にばつ印のイラストまで書かれた張り紙があった。
それが何やねん。冷静な態度が、言葉が、非常にむかむかとしてきて。高山は何も口にせず睨み返すのみだった。
伊藤と高山、頭一つ分程高山の方が身長は低い。高山の方が見上げる姿勢になっていた。それでも睨みに秘められた勢いは同等かそれ以上だった。
無言の睨み合いはなおも続く。一寸前の話し合いの時とは違う、重苦しい緊張が生まれる。
取り残された三人はその場で息を呑み状況を見守るしかなかった。しかし、永井だけが正気を取り戻し、二人の間に割って入ろうとするも。
「海くん、伊藤くん、止めな……」
言葉が終わらないうちに、高山が永井を突き飛ばしていた。
そのまま伊藤のシャツの胸倉を左手で掴み、残った右腕を振り被った。が、それは振り被ったままで終わる結果へと繋がる。
次に時が動くと、逆に高山の服を伊藤ががっと掴んでいた。自然と高山の左手が外れ、それでも負けじと踏ん張った時には既に遅く。伊藤に背負い投げを放たれ体が宙を舞っていた。ずしんと強く背中をタイルに叩きつけられ、ビル全体が微震に襲われたかの如く揺れた。
しばらく肉体だけでなく神経にまでダメージを与えられて動けず、白目までむいていた。
しかし慣れ故か意識を取り戻すのが早かった。その目が捕えたのは天井ではない。
さっきまで睨んでいたあの顔が、ズームアップまでされていた。焦りや苛立ちを覚え抵抗を試みるも手も足も、体全体が重みに阻まれ動けない。
柔道有段者の伊藤が自分を押え込んでいたからだ。試合で相手と対峙した時と同じ、凄みを利かせて手加減もしない。
「伊藤くん、止め……」
またも自分たちを止めようとする永井を、伊藤は力ではなく背中だけで訴える。これは俺らの問題やから手を出さんといてくれ、と。
「後輩になる奴が入ってきたっていうから、どんな奴かと見に来てみれば」
自分を押え込むその腕はぎりぎりと力強く、高山はぜえぜえと息苦しさを覚えた。それでも。
「礼儀が全然なってない。ただの不良やないかい」
不良グループボスの威信と自らの意地とで、ギブアップの意思表示はしないと堅く誓っていた。
しかし体は正直で。目は潤み体も震え、左手は自然と床を叩こうとしていた。
「柔道にせよ芸能界にせよ、礼儀ってモンは大事や」
伊藤は情けをかける形で高山から離れるとふうと息を吐き、冷静にシャツを整えた。
もう既に解放されているはずなのに、何故か動けない。
「本気でモデルをやる気があるなら、よう覚えとけ」
動けぬままの高山を最後に一睨みし、背中を見せて出ていった。勝者だけが見せられる、悠然とした背中を。
――初めて自分が負けた。初めての屈辱。
悔しかった。他にも色々な感情があるはずなのに、とにかく悔しくて。
しばらく高山は呆然としていたが、突然がばと起き上がると烈火の如く突進していた。
もう伊藤は姿を消し、静かに閉められた扉だけしか残されていないというのに。
猛牛そのものに興奮する高山を、永井が危険感知能力に命令されるままに羽交い締めにする。
「止めんな! あの野郎、マジでぶっ殺したる!」
「いくら何でも無謀や! あの人、伊藤くんは、柔道で世界制覇も夢やないって言われた男なんやで! 返り討ちにされるのがオチやって!」
言葉でも腕力でも、勢いは止められなかった。高山の目は血走り、顔は真っ赤で、呼吸も荒い。
ぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる。その思いは勢い弱まることなく膨らみ続けているというのに。
ヒリヒリと残る背中の痛みに、それは無理だと警告されているようで。
羽交い締めから解放された高山はその場に両膝を突き、タイルを力いっぱい叩くしかなかった。
骨までじいんと痛みが響くまでやっても、心は一向に晴れなかった。
「俺……ここに来てからも迷ってた。元不良の俺なんかがモデルになってええんか、それにグループのみんなのこともある、って」
姿勢はそのままに、自然と言葉を紡ぎ出していた。三人はそれを黙って受け止める。
「こうなったら決めた。俺モデルの仕事やる。それで、あいつを見返したる」
激しい炎の如き感情を、静かに閉じられた扉へと向ける。
「……見とれや!」
決意を胸に、高山はぐっと拳を握り締めた。
それから、高山は事務所預かりのモデルとして活動することになった。
不良少年のグループにその話を切り出した時、返ってきたのは応援と激励だったことに面を食らってしまったものの、それを自信と勇気に変えて。
慣れないながらも、自覚の無いままの無礼や失敗を繰り返しながらも、一歩一歩大きくなっていった。
その中でも気に食わないことが一つあった。伊藤のことだ。
ホープには自分と伊藤しかいなかったというのもあってか、一緒に仕事をこなすことが多かった。伊藤には一人だけの仕事が舞い込んできていたのに。
たまらなく屈辱だった。あの出来事もあって。しかし一番は、自分をまるで始めから存在していないかのように仕事をこなしていたことか。
あれから高山の胸中は複雑だった。伊藤を見る度に屈辱と復讐心しか沸き上がらなかった。そのはずなのに。
自分の中に、得体の知れない思いまでも膨らんでいく。
家を出る前も、その後不良少年とつるんでいた間も、自分の知らぬ間に欲していた思い。それに酷似していた。
今ある事実に影で混乱し、一人悩んでいた。それが反発へと変わる。
伊藤に、そして一緒の仕事の時は周りにもわざと無礼極まりない態度をとっていた。そこでまた注意を受け、ある感情を自分の中で膨らませ、混乱し一人悩み、また無礼な態度をとる。悪循環は止まらなかった。
そんなこんなで、高山のモデルとしての活動期間が一ヶ月を満たしたある日。
「そろそろ高山くんも自分の寝床を確保せんと」
皮のソファの上に毛布を広げる高山を見て、事務用ファイルを片手にしたホープの社員が言った。
家出中の上に不良グループボスだった高山には当然帰る家もなかった。その為毎晩このホープ社屋の一室を借りて寝泊りしていたのである。ちなみに今日は、事務室で。
保護者的存在の永井を頼ってもよかった。しかしその永井に同棲中のフィアンセがいるという事実を知った。優しい心根故にこれ以上迷惑をかけられないと遠慮し、現在に至るというわけである。
流石に社員に言われたからには、これ以上社屋に居座るわけにもいかないだろう。しかし。
まだ十九歳にもなっていない、ましてやまだモデルとしての収入が確立されていない高山に、どこの不動産が部屋を紹介するというのだろうか。
そうなれば、芸歴も浅い為同業の知り合いも少なく、社員の誰かを頼りざるを得ないわけで。
永井は役員を含めた社の人間全員に呼びかけた。高山を居候させてやって欲しいと。自身も頼みこむ。
しかし、自分には養わなければならない家族がいる、自宅のアパートは同居禁止、経済状況的に苦しい、等の理由をつけて皆渋い顔をするばかりだった。
いくら現場での高山の態度が悪いとはいえ、これは非情過ぎるだろうと永井は顔をしかめた。
「もうええって知也兄ぃ。俺、いざとなったら公園でもどこでも寝泊りできるし、それに適当に女を捕まえれば……」
「それはアカン」
そんな永井を思いやった高山の言葉を、別の重く、迫力のある声が遮る。
声の方向に目をやると、伊藤の姿があった。何が気に食わないのか、顔をより強張らせて高山に近づく。伊藤にあまりいい感情を抱いていない高山もそれは同じで負けてはいない。
またも二人の間に火花が散り、永井にも、他の社員にも緊張が生まれる。
二人を除いて誰もが皆、大嵐になることを想像し恐れていた。
「住む所に困ってるんなら、俺の家に泊めてやる」
あまりの予想外過ぎる展開に、全員の目が点になってしまった。
何であんたの世話にならなアカンねん。高山は舌打ちし、睨みを強める。
伊藤はその胸倉を掴み、特に顔を間近に持ってくる。
「最初に言うとくけど、可哀想やからとかそういう理由やない。勘違いするな」
誰が。口をぎゅっと噤む。苛立ちは最高潮に達していた。
「朝昼晩、お前にみっちり礼儀を叩きこむ為や。よう覚えておけ」
伊藤はなおも顔を近づけ凄んだ。苛立ちはふて腐れた顔を背けるように命ずる。
「返事くらいせえや。できるやろ?」
逸らした顔を無理矢理前に持っていき、揺らし、返事を求める。もっとも、否定は言わせるつもりも受け入れるつもりもないようだが。
『はい』でも『いいえ』でもなく。ただ睨み続ける。それが、高山の返事だった。
返事を一応理解した伊藤はふんと鼻息も荒く、胸倉を解放した。高山がどすんと皮のソファへと腰を落とした音を聞いて。
不機嫌そうに黒髪を掻き揚げ、この場から去ろうと踵を返す。
「あの、伊藤くん。無理せんてもええよ? キミも生活苦しい筈やんか。バイトとオーディションだらけで『貧乏暇無し』ってこの前も……」
案じて話しかけてくれた永井にも、伊藤は笑顔でかわすのみだった。
宿無しになるしかなかった高山を引き取ることでヒーローになれる。伊藤はそんな考えなど微塵にも持たない男だった。思うところあり、だった。
しかし高山にとってはこれもまた屈辱的だった。そして混乱へと変わっていく。
恨みや復讐心しかなかったはずの伊藤への気持ちに『感謝』が芽生えてきた為に。