落ちるところまで落ちてやる。その言葉だけが少年を動かしていた。

 家を出ていってから数日と経たないうちに、自分と同年代の不良少年グループのボスに収まった。ボクシングやサッカーで培った腕力と運動神経で、元々のボスをねじ伏せて。

 少年グループは、俗に言う『不良』だった。学校にも行かず、煙草や飲酒、気に食わぬことがあれば暴力を振り、金が無くなれば恐喝やオヤジ狩りを繰り返す。そんな毎日を送っていた。

 だが新しいボスとなったその少年はオヤジ狩りや恐喝を潔しとしなかった。標的、特に中年男性を前にしてしまうと、自分の中に残っている良心、そしてある思いに引っ掛かってしまい――。

 命令を下した日から、縄張り争いをしている敵グループに腕力を奮うだけとなった。

 ヘタレ。ボスの座を奪われた不良少年を含めて皆影で言い合っていた。しかしあくまで『影で言い合う』だけで、面と向かって言わなかった。

 少年の実力を知り尽くしていたから。少年は相手が千人束になっても勝ち抜ける実力があった。実際にそんな場面に遭遇した時、手下たちは皆指の神経すら動かず息を呑むしかなかったという。少年にいろんな意味で憧れを抱く者も現れた。

 ケンカや子分を含めた不良少年たちとつるむこと、憂さ晴らしのナンパで知り合った少女たちと繋がること。全て経験となり、少年の『今』に役立っているという。

 そんな中でも少年にも引っ掛かっていることがあった。両親のことだ。

 あんな形で出ていったものの、やはり気になる。自分がいなくなったことで、心労が大きくなってしまうのではないか。元気にしているのか。何より、暴力に悩まされていないか。

 だがしかし。偶然目にすることとなった新聞で、全て掻き消えてしまった。

 まず、あの日の出来事は強盗事件として片付けられていた。次に、自分は現在留学扱いにされていた。最後に、相変わらず二人は、そして自分たちは理想の家族像として世間に語られている。

 許せなかった。特に最後の、一番事実に遠いと思った記事が。

 やはり、自分のしたことが、自分の思いが何一つ伝わっていなかった。

 そして、全てが信じられなくなった。

 

 つるんでいる不良少年たちにも本当の自分を曝け出せぬまま、そんなこんなで家出をしてから二回目となる春を迎えた。

 グループから離れて一人、難波の雑踏を歩いていた。

 どこへ行こうか、少年自身にも分からない。

 少年が醸し出すオーラのせいか、道行く者は皆譲る形で自然と離れていった。危害を加えるつもりは毛頭無いというのに。

 誰にも理解され得ぬ孤独を瞳に湛えて、歩みを止める原因となった赤信号を見ていた。

「海くん?」

 孤独な背中を誰かが一つ叩き声を掛けた。少年は思わず振り返った。その声に懐かしさも覚えていたが、若干面倒臭そうに。

「海くん? 高山海くんやろ?」

 ヘアワックスで整えられた黒い髪に立派なスーツに身を包んだ、さっぱりとした身形の男がいる。その風貌から察するに、年齢は二十代半ばといったところか。

 少年は眉をしかめて男を見た。眼を飛ばしたとも言える。

「ほら僕のこと、覚えてへん? 僕、キミの隣の家に住んでた永井知也です」

 男が名乗ったことにより、少年の心の片隅に残っていた記憶が少しずつ紐解かれていく。

「やっぱり忘れてもうてるかな? 最後に会うた時、海くん四歳やったし」

 何もかも、思い出した。少年は意識を甦り行く記憶に浸らせた。

 男もとい永井の「こんな街中で再会できるなんて奇跡としか言えへんね」という言葉にもろくに耳を貸すことも無く。

 

 少年もとい高山に声を掛けた、永井知也。今でこそ大阪在住であるが、京都にいた頃は高山家の隣に住み、高山より五つ年上だが一人っ子であるところは同じだった。

 永井は誰にでも平等に優しく、高山家の一人息子もまた本当の兄弟同然に可愛がっていた。高山もそんな永井が大好きで、ずっと後をついて回っていた。

 いつまでもこんな関係が続くと思っていたのに。

 高山が四歳になった時、永井家は父親の仕事の都合で大阪への引っ越しが決まってしまった。永井家と高山家、双方の一人息子は泣き言で親を困らせたという。それでも覆ることはなく。

 そんな幼心が引き起こした出来事も、今となってはいい思い出となった。

 もしかしたら永井があの時にもいてくれたなら、自分はぐれずに済んだのかも。という浅はかな考えが家出をした今日までも浮かんでは消えていったという。その度に笑いを噛み殺し、グループの少年たちに気味悪がられることにもなったのは言うまでも無い。

 

「……くん? 海くん?」

 何もかもが懐かしくて。

 高山は目を閉じその場にただ、立ち尽くすだけだった。

「海くん」

 永井に名を呼ばれ肩を揺らされるまで、ずっと気が付くことも無かった。

「ああ、知也兄ぃ」

「ああ、とちゃうって。このままやったら通行の邪魔になってまうやん」

 永井に言われて初めて気付き、前を見る。

 信号は既に青に変わっていた。通行人は二人を軸としたパチンコ玉のように横断歩道を渡る。

 自らの意識を甦った記憶に浸していた間もそれは同じだったのに。しかも全く気がつかなかった。それほどにまで永井との記憶が高山にとって大切なものだったのだ。

 嬉しさ半分呆れ半分。永井は溜息混じりに苦い顔を見せる。

 これ以上ここにいると本当に通行の邪魔になってしまう。

 こんな所で立ち話もなんだから、どこか喫茶店でお茶でも飲みながら話そうかと永井が高山を誘う。高山もそれに同意を示す。

 永井が歩き、高山はその後ろをついて歩く。それもまた、懐かしい記憶を紐解く鍵となって。

 またも高山はすれ違う人にぶつかりそうになってしまった。寸でのところでオーラに圧された通行人の方が自然と離れていったが。

 

 

 偶然の再会を果たした横断歩道から十分ほど歩いた、裏通りの小ぢんまりとした喫茶店。

 そこは永井行き付けの店らしい。店員は接客態度こそマニュアルを守っていたものの、声色は顔なじみの知り合いに会った時の喜びに近く、高くなっていた。

 内部も小ぢんまりとした外観相応のもので、椅子とテーブルのセットも一桁ほどしかなく、全てクロスもクッションもなく木の暖かみが剥き出しとなっている。ランプや飾られた花のおかげで雰囲気は明るい。

 アットホーム。一見の客である高山は、店内を見回した末に自然と感想が出てきた。

 場所の問題か午後二時過ぎという時間帯故か、客は自分たちを含めても五人しかいない。もっともその方が高山にとっては好都合だったが。どうやらそれは永井も同じようで。

 注文を終えると、永井は高山を穴が開くほどじっと見つめていた。それに気付いた高山も永井を見つめ返す。同性であるにも拘わらず、なんだか照れ臭くて。

 高山はぷっと吹き出した。くくくと自然に笑みが零れたが、真面目を崩していない永井の顔が視界に入った途端、何となく気まずくなる。

 そこに抜群のタイミングとも言うべきか注文の品であるコーヒーが運ばれてきた。ごまかすのに最適と高山はカップに口をつけ、下品という意識もまるで無く音を立ててすする。

 一方、もう一つのコーヒーは手をつけられることなく湯気が出されるばかりだった。

「あ、あのさ、知也兄ぃ。さっきから一体何やねん? 人の顔をじっと見たりして」

 もどかしさが頂点に達し、高山は永井に問うた。

 そこでここへ来て初めて変化を見せた。普通にカップを持ち、普通に口をつけ、普通にコーヒーをすする。動作全てに悠然とした余裕が感じられて。

 一人慌てふためいた自分が、たまらなくあほらしく思えた。

「うん、海くんって……結構ええ男やなって思うて」

「え?」

 唐突とした永井の一言に、高山はこの小ぢんまりとした店を揺るがすには十分過ぎるほどの大声を出した。永井は動じなかったが、他の僅かな客と店員は一斉に二人、特に声を発した高山を見た。

 鼓動が速く妙な息苦しさを覚え、茹蛸の如く真っ赤になった顔を俯かせた。その様は、初めてのデートで緊張する少女そのものと言える。

 それには、大いなる動揺が含まれていて。その後のカップ一つ持つという単純作業にも手が震え、茶色い液体をテーブルに零してしまう。慌てておしぼりで拭き取ろうとするも今度は調味料やメニューを倒しそうになって。

 もう、何もしない。一番単純で賢明でもある答えを導き出した。

 しかしもやもやとした心の霧は晴れず、腹話術の如く不自然に口を動かしていた。

「や、藪から棒に何言い出すねん知也兄ぃ。そんなん男から言われたかて嬉ないわ」

「でも、ええ男やって思うよ。口はぐっと男らしい力強さを感じさせるし。眉毛なんかこう(自分の弓形の眉を釣り上げて)強い意志を秘めたって感じやし……」

 他にも高山自身にも気付いていなかった魅力について延々と、トークマシーンよろしく語り続ける。それだけならまだいい。周りにすっかり筒抜けになってしまった。

 僅かな客はにやにやと笑う。店員ですらすぐ隣の、手の空いた同僚に耳打ちを始める始末。

 何見とんねん。何笑っとんねん。不良少年グループボスの意地を込めて眼を飛ばすも、照れが最高潮に達した今、迫力は皆無に等しい。

 もう止めてくれという、高山の半泣きの訴えにも耳を貸すことなく永井の惚気は続く。遂には口をふさぐという、強引過ぎる手段に出た。

「わわっわわわ、わわっわわわ。ほほへほははいへふれ(分かったから、分かったから。この手を離してくれ)」

 開ききって潤む目とあまりに苦しそうな表情と懇願を信用し、高山は手を離した。今度は永井が顔を真っ赤にし、久々に呼吸を覚えて吐く。そして。

「でもええ男やって思うたのは事実やで。分かるもん。僕には分かる」

 並べたい言葉はまだあったのだが。両手の再現を恐れ、そこまでで止めた。

 双方ともに無言だった。コーヒーももうない。そこだけ時が止まってしまったようだった。

 しかし永井がコーヒーを飲む前の、真面目を取り戻したことにより動き出す。

「それでまた唐突なんやけど海くん。モデルとか興味あらへん?」

「モデル? モデルってまさか、雑誌とかにようあるあれのこととちゃうよな?」

「うん。海くんみたいな人をずっと探しててん。海くんが欲しいねん」

「ちょっ……! そんなん言うたらまた周りに誤解されてまうって!」

 言動に自覚があんのかこの人は。高山は一人、慌ててテーブルを叩いた。もう周りは高山たちなど興味もなく、それぞれの食事や仕事と向かい合っていたというのに。

「ま、まあ『海くんが欲しい』は言い過ぎかもしれんけど、意味合いは同じや。ようするに、スカウトや。海くんをモデルとしてスカウトしたい」

「スカウト? 俺を?」

 ご冗談を。高山は、半ばやけくそに声を張り上げて笑った。

 周りは否応無しに興味を持たざるを得なかった。笑い声が非常に耳障りなものにも拘わらず。

 他の客の迷惑になるからと店員が注意する前に、それはぴたりと止んでしまった。

 大真面目に強張った表情を前にして、誰が笑えるだろうか。

「そんな、詐欺とか冗談とかとちゃう。僕、大学を卒業してから『ホープ』っていう規模の小さいモデル事務所にマネージャー兼スカウトとして採用されてん」

 これが証拠と言わんばかりに持っていたトランクから名刺を取り出し、研修で教わったままに名刺を高山に手渡した。

「海くんならいける。僕には分かる。実はここだけの話、昔からお母さん譲りの可愛い顔してるなって思いながら見とってん」

 永井の熱弁も耳から耳へと、高山はまじまじと名刺を見つめていた。

 そこから何を得たのだろう。再びその頭が上げられた時には眉間に皺が寄っていた。

「けど俺みたいな不良がモデルなんて、世間にはちゃんちゃら可笑しな話になってまうんとちゃう? ホンマに大丈夫なんか?」

 永井は何も言わず、力強くうなずくだけだった。

 ここで、全く味の無い営業トークだけを並べていたなら信用できなかったかもしれない。

 高山の背中を、何かが押した。

「ほんなら、事務所に行くだけ行ってみるっていうのはアカンの?」

「え? ええの?」

 ありがとう。の気持ちを込めてがっと、名刺も含めて高山の手を力強く握った。満面の笑みも合わせて。

 まだそこまで決めてへんのに。高山も笑みを見せるも、引き攣らせるしかなかった。

 

 ここは年上の奢りという話の元に永井が会計を済ませる。そのレジのウエイトレスが営業用とは別の、笑いを殺していたようにも見えて。高山は不快を覚えたが眼を飛ばしたりしなかった。

 その前に、永井が外へと出ていたから。高山も慌ててそれを追う。

 春の暖かな風、心地よさと解放感にも促されて伸びをする永井がいた。

「あの、知也兄ぃ」

 気になるから。その背中に高山は問う。ついうっかり洩らしてしまったあのことについて。

「俺がさっき言うた、その、何ていうか、あれについてやけど……」

「ああ、あれかい」

 まごつく高山に背中を見せたまま、一つ息を吐いた。

「あそこでも『今何してるのか』って聞かんかったやん。まあ、それが答えやな」

 永井は既に、全てを知っていた。その上で高山に話を切り出したのだから。

 しかし『答え』の見えてこない高山には非常にもどかしく思えた。胆石の如き、否そのものと言えるそれを抱えたままで過ごすのも気味悪いと言うべきか。

 『知也兄ぃを信じる』という、半ば強引な結論を自分の中で付けることによって打ち消した。