ボロ雑巾。それが、今の自分を表すのに最適な表現なのかもしれない。

 少年は思った。自分の姿を寸分の狂い無く映し出す鏡を見て。

 この日、初めて親譲りの黒い髪を染めた。黒が徐々に姿を消しブリーチ剤が染みこんでいく様を見て、少年の心は晴れ晴れとし、満足した。だがそれも最初だけだった。

 父親も、母親も、昔から自分に無関心だった。自分を抱き締めてくれることもなく、ここ数年の間向かい合って話をしたこともない。悪戯をしても、学校で注意されることがあっても、叱りつけようともしない。

 そして、今こうして明らかに変化の兆しであるはずの、金髪を前にしても。

 父親も、母親も、何も言わなかった。黒い髪ではなく、金髪の自分がそこにいるというのに。見て見ぬ振りを決め込んでいるようにも思える。

 少年はすぐさま自室へと篭もり、自身、特に顔を鏡に映した。

 自分が浅はかに思えて。惨めでもあって。

 そんな感想が自然と出てきた。

 

 ――どうして分かってくれないんだろう。何が悪いのか?

 そんな疑問と不安は、反発へと変わった。その日を境にして。

 煙草。少年はそれを吸った。未成年であるにも拘わらず。テレビなどでよくあるように『自室でこっそりと』ではなく。自宅のリビングで堂々と。

 しかし、髪の時と同じく父も母も、何も言わなかった。

 煙草を取り上げない。叱りつけもしない。殴ってでも止めようとしない。寧ろ、自分を避けているようさえ見える。

 ――どうして分かってくれない。

 少年の苛立ちは煙となって、吐き出されては消える。それを繰り返すばかりだった。

 

 現在通っている高校で少年は、一人浮いていた。小、中学と明るくお調子者な性格で(家での自分を隠す為に演じていたのもあるが)友達も多かったのに。

 染めた髪や素行の悪さで教師に目をつけられ、少年を恐れる生徒まで現れた。しかしそんな中でも少年に密かに憧れる女子生徒も多かった。生まれ持ち、更にここで培った彼の魅力は『今』に繋がっている。

 染めた髪は元が伸びたせいでカラメルの如く黒が顔を覗かせた。しかし地の色に戻す気は微塵にもなかった。周りからなんと言われようが、これこそが今の自分なんだという意志が強く。

 元々学校にはいい感情を抱いていなかったが、からきし駄目だった勉強が足枷となり学校へ通うことが憂鬱となっていった。そんな彼の足を動かした理由の一つとして、一年と数ヵ月部活としてこなしたボクシングがある。人並み外れた反射神経と動体視力とで、入部して間もなくも周りの先輩たちを震え上がらせていた。

 元々テレビでボクシングやプロレスなどの格闘技を見るのが好きだったというのもある。

 父親への反抗。それが、少年を格闘技へと狩り立てる最大のきっかけとなっていった。

 

 小学生の頃、少年は地元のサッカーチームに参加していた。スポーツ、特にサッカーが大好きで、いつか見たフィールドで活躍する日を夢見ていたほどだった。それなのに。

 ある日普通に練習へ行った時、監督から衝撃的な事実を聞かされる羽目になった。自分は父親によって勝手にチームを退団させられていた、という。

 すぐさま家に戻れば多忙故にいつも空けているはずの父親が珍しくいた。少年は感情のままに父親に詰め寄った。返ってきた答えは信じられない、でもやはり心のどこかで覚悟できていたものであった。

 今日から勉強漬けの毎日を送らせる。お前を政治家である自分の後継者に育て上げる為に――と。

 それまでの多少の不信も手伝い、少年は残酷極まりないその男が一遍に信じられなくなった。感情のコントロールが利かなくなり、自覚のあった時には右の拳を振り被っていた。しかし小学生の腕力では大人の男性に到底敵う筈も無く、軽くかわされるだけだった。

 その時少年の心に、徐々に膨れ上がることになる『父親への反抗』という種子が初めて植え付けられた。そして、男の為す事全てに疑問や不安を感じるようになった。

 それから少年は毎日耳にたこができるほど『政治家になれ』と言われ続け、更に家庭教師もつけられることとなった。が、それら全てを軽くかわし、家庭教師に至っては小学生特有のあらゆる悪戯を駆使して追い返していた。

 

 それは、こうしてボクシングに打ち込む間も同じ。

 勝手に退部させられようが、今度は絶対に止めない。俺にも意地ってモンがある。

 何があっても追い返し、軽くかわしてやる。

 そんな思いを、拳に乗せてサンドバッグと向かい合う。あのクソ親父を思い描いて。

 

 

 後に『海の日』と定められた七月二十日、少年は十七歳になった。特別な日にも拘わらず、両親共に家を空け一人でその日を迎えて。

 しかし、少年は何とも思わなかった。もう、それが当たり前になっていたから。

 一人ぼっちの誕生日に寂しさを覚え泣くしかなかった子供の頃から、一回りも二回りも大きくなった手をじっと見つめた。

 手だけではない。全てが変わった。

 父親に恐れを抱き、部屋で一人隠れ震え、泣いていた幼かった僕。母親の為にいい子でい続けた、否、演じていた僕。両親を恐れと嫌悪と、反発――様々な感情の元に見ていた僕。

 あれから、自分は変わった。もう、弱い俺じゃない。

 

 

「どないしたん、海! 止めなさい!」

 お城のように大きな家の、リビングで。

 女性が泣き叫び、床は破片で満たされ、ガラスが悲鳴を上げる。机や椅子は横倒しになっていた。

 強盗が入ったわけではない。自然災害でもない。

 興奮し、目は血走り、息も荒い少年が全ての元凶だった。

 

 その日。両親は仕事から二人揃って戻ってきた。腕まで組み、仲睦まじく。少年はそれを玄関まで出迎える。

 二人を送ってきたハイヤーの運転手は溜息混じりに「羨ましい」を繰り返す。理想の夫婦像として世間一般に語られる二人を見て。

 だが少年には分かっていた。その様が偽りの姿でしかないことを。体こそぴたりとくっついているが心は悲しいほど距離が置かれているという、生涯守ると誓ったはずの伴侶に手を上げているという、愛情が皆無に等しいという、真の姿を。

 案の定、リビングに戻ってきた二人には会話が無かった。父親は着替えもせず新聞やテレビ、その他の媒体で社会情勢を確認、明日の仕事への下準備をする。母親は着替えを終えるとリビングに隣接するキッチンで仕事用の手書き原稿作成に没頭する。

 その間お互いはずっと背中を合わせ続け、特に母親はびくびくと震えている。作業で走らせているシャープペンシルの、芯が折れること数回。自分の夫に対する恐れが、そうさせるのか。

 二人一緒の作業が無くとも、こうして同じ部屋にいれば自分たちの冷え切った仲を否定できるとでも、自分たちの息子を安心させられるとでも?

 真の姿を知っているからこそ、少年には二人が苛立たしくて。でもそれを表に出せない自分はもっと苛立たしくて。

 様々な感情がうねりをあげ、少年に命令する。言葉に出せないのなら、体で表せ、と。

 それは最も嫌悪しているものだと拒否しても、止めることができない。

 気が付けば少年の、ボクシングで鍛えられた握力がガラスのコップを粉々に砕いていた。

 

 ガラスのコップの破片が、この喧騒の序曲となった。

 父親も、母親も、その手を止め一斉に視線を鋭き音へとやる。

 角の部分が真っ赤に染められたコップだったものと、そのそばで小刻みに震える息子がいた。

 息子もとい少年の手から『赤』がぽたりぽたりと滴り落ちた。

「……けんな……!」

 声も、震えていた。目もカッと開かれて小刻みに噛み合う。

「ふざけんなあっ!!!!!!」

 血塗れの手が、前にしていたテーブルを真二つに引き裂かれそうなほど強く叩いたかと思えば、次の瞬間にはひっくり返していた。興奮収まらぬままに今まで自分が腰掛けていたソファを蹴飛ばした。成人男性の力一つではびくともしないのに。

 母親は表しようの無い緊張に襲われ、動けなかった。息子を止めたいと思う気持ちはあるのに。

 少年は感情のままに暴れた。太い腕が唸りを上げ、その度に女性の金切り声が木霊する。

 絵皿、写真立て等リビングにある、目に付いたもの全てを投げる。窓や棚のガラスにぶつかり、鋭い音が響く。

 そばにあった花瓶を握力に任せるままに掴み、床に叩きつける。破片が飛び交った。見る者に癒しを与えていた花こそ駄目になってしまったが、破片が誰にも刺さらなかったのが唯一の幸いか。

 僅かに残っていた少年の理性が、そうさせたのかもしれない。

 感情のままにキッチンへずかずかと乗り込む。目標は、そこで震える母親ではなく。

「海! 止めて! 止めなさい!」

 動けぬまま、母親は涙混じりの叫びだけで息子を止めるしかなかった。そんなものが怒れる獅子の如き息子を止められるはずも無く。

 その母親など眼中にも無く、少年は戸棚から皿数枚を取り出し、床に叩きつける、つける、つける。鋭い音と破片が増える。

 涙に濡れた目には見えないが、少年の目にはもう血の気も無く、きらりと何が光った。

 その中で冷静に場を見る者が一人。

 父親だった。

 少年ははたとそれに気付き、ビデオの一時停止のごとく動きが止まった。血塗れの手で顔を擦り、隈取りの如く赤く痕が残る。

 母親のように震えるでもなく腕組み、どっしりと自分を見るばかりだった。見るばかりで、何もしようとしない。

 何でやねん。何で自分を叱りつけてくれんねん。何でお袋は殴れるのに、何で取り押さえてでも自分を止めようとしてくれんねん。何で自分を殴ってくれんねん。

 ――どうして分かってくれない。

 それが少年の、怒りに油を注ぐ結果となってしまった。

 少年は両手をぐっと握り締めた。その『赤』が新たに零れたものなのか、自身にも分からなくなっていた。

 最後にキッチンの、自分のそばにあった椅子を蹴飛ばし少年はどこかへと出ていった。

 その足が向かうのは部屋でも家の何処かでもなく。

 以前バイトで稼いだお金で購入したバイクで、何処かへと消えていった。