二人の為だけに世界はある、とはよく言ったもので。
何時間経っても、言葉そのままに二人だけ。邪魔するのは、僅かな隙間ほどに開けられた窓から虚しく通り抜ける風だけだ。
それは、記者がここに興味を示さなかった為に混乱まで至らずに済んだ。ということに繋がる。そして、恐れていたもう一つの結果にも転ばなかったということになる。眠れる彼の、母親だ。
文にここがばれていない。という事実が今の彩に安堵を与えていた。
そしてもう一つ。彼の手。大きくて逞しくて男らしい、骨張っている手。その手は、確かにここにある。
その手が徐々にぼやけて、黒にも邪魔され途切れ途切れになり、一瞬見えなかった。瞼も重い。
今、自分は舟を漕いでいた。がくんと動く首が、それを教えてくれた。
肉体的な疲労はもちろん、ここへ来てどっと押し寄せてきた精神的な疲労がもたらしたもの。
意識をはっきりさせる為に、残った左手で目を擦る。
「はっきり言うて、無駄」
誰? どうしてそんなことを言うの? 彩は首だけを声に向ける。
いつの間に入ってきたのか。高山の頭側に位置する隅に、青いパジャマを着た黒髪の小さな男の子が立ち尽くしていた。その様は座敷童子を思わせる。
一歩も動くことなく、じぃっと相手を見る。という行動を繰り返すだけ。直接の害を与えてこないものの、その目もすわり無気味極まりない。
しかし彩は恐れ戦かなかった。男の子に、会った記憶があるから。それがたとえ、夢の出来事だったとしても。
自分の中の引出しからある記憶を取り出し、思い返した。
◆
ここは? それが、彩の率直な感想だった。
今自分は、とある一軒家の廊下にいる。それが実家のものではないことなどすぐに分かった。
だって私の家ってこんなに長い廊下はないもん。一歩を踏み出し心の中で言う。
実家でないならすぐに引き返すべきだった。しかし沸き上がる好奇心は抑えられない。三歩目に差し掛かったところで、誰かのすすり泣く声が聞こえてきて余計に。
明らかに不審人物であるはずの自分が入ってきているというのに、誰も取り押さえようとも警察を呼ぼうともしない。彩はそんな現状に首を傾げながらも、そっと歩みを進めた。
歩みは一つの扉の前で止まった。そこからはっきりと強く聞こえてくる。
泣き声の主を探らんと、彩はそっと隙間一センチほど開けて中を覗いた。
――男の子だ。
掛け布団やカーテンは潮風を思わせる青で統一され、積み木やロボット等の玩具が散乱する部屋の片隅に男の子が一人。
男の子は小さな手で一生懸命目を擦っている。手に相応しい体を縮こまらせて、肩を震わせて。目の周りが真っ赤になっていることも、隙間から覗き見ているだけなのに分かってしまう。
気が付けば扉を力強く開けて、男の子を抱き締めていた。
決して子供特有の可愛らしさに惹かれたわけではない。ただ、その子がいとおしくて。
「どうしたの?」
男の子は、震えていた。
「お母さんが……」
男の子は、たどたどしくも言葉を紡ぎ出していた。明らかにイレギュラーであるはずの、彩に全く不審を抱くことなく。
「お母さんが、お父さんに殴られてた。お母さんが、泣いてた。僕が、悪い子だから。僕のせいで、お母さんが……。お母さん、怖いよ。お母さん、お母さん」
「大丈夫」
彩は、男の子をより強く抱き締め、そう言っていた。
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのだろう。
お父さんとお母さんは、決して仲が悪いわけじゃないから?
あなたは悪い子じゃないから?
お父さんは、あなたには暴力を振るわないから?
分からない。でも、今はそれしか言えなかった。
すすり泣く声が止まぬ中、彩は男の子を抱き締めるしかなかった。
◆
そうだ。あの夢は確か五月に入る前に見たんだ。子供のように震える彼を初めて感じ取った、あの日の夜に。
「無駄やもん」
不意に聞こえた声が、彩を現実へと引き戻す。
いつのまにか自分のすぐそばに来ていた男の子に、思わずたじろいでしまった。足音が一つも無く、動いた形跡も全く感じられず。
しかしそのたじろぎが幽霊さながらな行動によるものだけだと、次の行動を見れば分かる。
男の子の作られたような無表情を臆することなく見つめていたし、何より手はしっかりと繋がれていた。
「あなたは――」
あなたは、私と会ったことがあるでしょ? そして――。
これ以上は言わなかった。言わずとも、男の子も、自身も答えを分かりきっているから。
何をするでもなく、彩は男の子を見つめていた。優しい母親を思わせる穏やかな表情で。
「無駄やのに」
予めそれだけしか言葉が登録されていない機械のように繰り返す。多少の変化があったものの。
もう、諦めてくれ。放っておいてくれ。とでも言いたいのだろうか。しかし。
ひたすらに、ぎゅっと高山の手を握る。これが、彼の言葉に対する彩の答えだ。
今までより強く繋がれた大小二つの手を見て、男の子にようやく変化が訪れる。
緩い弧を描いていた眉間に皺が寄り、目、特に瞳の部分が鮮血のように赤く、顔色は病的に白い。『見ていた』から『睨んだ』へと。まるで、ホラー映画を見ているようだ。
しかし彩の意志は男の子が醸し出す恐怖よりも堅かった。そして、彩にも変化は現れていた。
優しく見守る風の如き穏やかな母から、我が子を躾る炎の如き厳しい母へと。
母と子のような、しばらく双方の睨み合いは続いた。――が。
突如彩はカッと目を開き、おえぇと肺ではなく他の部分から絞り出したような奇怪極まりない声を出した。自分の中に何かが入り込むのを感じて。
それは、永遠の時を伝う水のようで。それは、終わりを知らない数字の羅列のようで。
その流れに逆らうことを、誰にも許されなかった。