窓から見える空は、どれだけの色の変化を映したのか。

 そこからは、もう泣き叫ぶ声も聞こえなかった。

 彩は兎の如く赤く腫れた目を湛えていた。頬にくっきりと涙の痕を付けて。

 高山たちを案じて入ってきたはずの人物もいなくなり、二人きりだ。その二人の手は、頑丈な鎖の如く強い連結を保っている。

 だが今は、それだけが二人を繋いでいた。

 この手を、彼を、最後まで信じよう。五臓六腑、血液、五感、皮膚という、自らのパーツ全てをそれだけに集中させる。

 バン! と大きな音が部屋中に木霊するまでは。

「彩ちゃん……!」

 大きな音と自分を呼ぶ息切れ混じりの声に、思わず視線をそちらへ向けていた。そこには息切れから咳き込み、冬なのにコートや茶色い髪が汗でぐっしょりと濡れた森下がいる。

 息苦しさから胸を抑え両肘をついてしまった森下を、彩はここへ来て初めて丸椅子から離れて労わる。

「た、大変! こ、これ、これ見て!」

 呂律が回らずも森下は、必死に言葉を紡いだ。ふらふらになりながらも、あるページが開かれた一冊の週刊誌を彩の右手に持たせる。

 差し出されるままに見るそれが彩に強いショックを与えてしまうものであるとは、誰が予測できただろうか。

 できるはずも無い。そのショックが正気を失うまでのものであることなど。

「おい、大変やで!」

「彩ちゃん! 高山!」

 森下に続く形で、伊藤と藤井も駆けつける。息切れこそしていないものの、彼らがここへ来る理由が風雲急を告げるものであることは、容易に予測できた。二人とも片手に同じ雑誌、しかも全く同じページを開いて持たせていたから。

 二人の声も存在も、彩には届かない。ショックで全ての力が抜け、右手からページが開かれたままの週刊誌が床に落ちる。

 そのページは数時間ほど前の、手の繋がれた自分たちをそっくりそのまま映していた。しかも自分にはモザイクを掛けられて。極めつきは、書かれていた記事の見出し。

 

 『人気没落の落ち目モデル、当たり屋の末に自殺』

 

 心無い単語や文章が、膨らみきった風船に鋭い針を立てるが如く彼女の精神に強い攻撃を与える。

 それぞれ受けた強さこそ違えど、三人ともそれは同じで。皆何も、言えなかった。言いたいことはたくさんあるはずなのに。

「……のせいだ……!」

 無理矢理絞り出したような、少女の震えた声。

「私のせいで……!」

 三人にも緊張が走る。憤怒、悲しみ、畏怖、それぞれ違う感情を込めて、一斉に彼女を見る。

「私が! 私が止めなかったせいで! あの時、私が止めていれば!」

 深い絶望が、再び枯渇したはずの涙を絞り出していく。そのまま泣き崩れてしまった。

 またもわあわあと、それしか知らないように泣き叫ぶ少女の声が木霊する。しかし。

「彩ちゃん」

 震えた肩を、丸太と見間違うほどの太い腕ががっしりと掴み、揺らす。爪が食いこみ、血が溢れ出そうなほどだ。

 彩は涙にくしゃくしゃになった顔を、すがるような目を上げた。それらの主、伊藤に。

「彩ちゃん、今は泣いてる場合とちゃうやろ?」

 だが伊藤は冷たく言い放った。顔も声も強張り、ここへ来て彩に初めて見せたものだ。黙って見る二人にも緊張が走る。

 彩は奈落の底へ突き落とされた感覚に陥った。だがそれも一瞬でしかない。

 次にはもう涙を振り払い、伊藤を見ていた。

「それも大変やけどな、社長が高山をクビにするって言い出した。多分、いや絶対にその記事が引き金になって」

 知らなかった。今初めて知りました。

「今から、あのクソ社長に直談判しに行くつもりや。全面戦争って奴になるかもしれん」

 腑抜けの如く立ち尽くす二人を前に、伊藤は力なく笑った。

「藤井、森下、そして――高山。こうしてお前らと話せるのもこれが……」

「皆まで言わないで下さい」

 憑き物が落ちたかのように表情を取り戻した藤井が遮り、まっすぐ前を見る。森下も同じだ。

「たまには僕にも格好つけさせてくださいよ。ずるいですよ、伊藤さんばっかり」

 それは俺かて同じです。を口にせずじっと伊藤だけを見る。藤井の主張だ。

「お前ら……」

 伊藤は感極まり、思わず棒立ちになっていた。しかし次の瞬間には眉をきりりと引き締める。この気持ちの切り換えの早さが、他事務所のモデルも含めた後輩に慕われる所以だった。

 死地に赴く勇者の如き三人は、凛としてうなずいた次にはもう体を翻していた。

「あ、あの……」

 彩は不安に駆られ、手を伸ばし上擦った声も発していた。

 私も連れて行って。私はどうすれば? 三人とも大丈夫? 彼はどうなるの?

 様々な思いが一度に溢れ出て、その中で揺れ動いていた。

 三人は足を止め、伊藤が踵を返す。そこには打って変わって実の弟妹を想うような優しい顔があった。

「彩ちゃん、ゴメンな。ここにも記者が来るかもしれん。それなのにいてあげられへんで。けど、信じて欲しい」

 混乱に震える肩に触れた腕が、優しさが、とても暖かい。自然と震えが引いていく。

「今あいつのそばにいてやれるのは、あいつの手を握ってやれるのも、彩ちゃんだけやから」

 彩もまた、凛としてうなずいた。もう、迷いはない。

 三人が出ていった後も同じ。彼らができること。今自分ができること。自分にしか成し得ないこと。それが分かっているから。

 ――この小さな手で、彼を守ってあげるんだ。