月日は過ぎていく。

 彼らの思いも虚しく、気がつけば年も明け、今はもう二月だ。彩は年末実家に帰省する予定だったのだが、それを変更して彼を待ち続けたというのに。

 あれから何も変わらずにいる。高山には笑顔も戻らず引き篭もったまま、伊藤たちは三人だけで仕事を進め、彩は誰の為でもなく料理の腕を奮っている。

 しかし、今日は違った。

 彩が一人でお菓子作りに精を出していたのも、扉の隙間から漏れたお菓子の匂いでマンション中が甘ったるくなってしまったのも、ここ数日前からずっと続けられていたことなのだが。

 『今日は違う』というのは、彩のエプロンの紐を結ぶという動作から既に気合が込められていたことに、そしてそれが尋常でなかったことに関係があるのか。

 これから作るは生涯最大のお菓子。ふんと両腕に力を込める。道具類も全て準備した。材料も確認した。いざ作らんとしたその時。

 何かが扉を叩く音が聞こえ、緊張の糸がぷつりと切れる。溜息混じりに髪を掻きながら、まだ音の止まぬ扉を開けた。

 ――声が、出なかった。心臓が止まるかと思った。時よ止まれと願った。

「よう」

 聞き慣れているはずのその声が、見慣れているはずのその姿が、百年も会わなかったかのようにとても懐かしく、とても暖かく感じて。

「久しぶり、やな。こんなん俺が聞くのもなんやけど、元気にしてたか?」

 一つ瞬きをしても、それは掻き消えない。自分を気遣ってくれるその声も、決して幻聴ではない。

 零れそうな思いを、一つ深呼吸して抑える。そして、にこやかに笑った。

「はい、元気にしていましたよ。いらっしゃい、高山さん」

 さあどうぞ。それ以上は言わずに高山を招き入れようと手を引っ張る。しかしくっきりと付いたくまとこけた頬で無理に作った笑顔と共に、軽く解かれてしまった。

「あ、ええねん。バイクでその辺走るついでに、急に顔が見たくなって来ただけやから」

「そんな、今日は特別寒いじゃないですか。体も冷えてるでしょうから、お茶くらい飲んでいってください。ね?」

 彩も頑として譲らない。不安だった。このまま帰してしまったら、この一瞬も夢として消えてしまいそうで。

 どんなに笑顔でも隠せない。不安な瞳に折れた高山は好意を受け入れた。状況から見ても受け入れるしかなかったのだろう。

 何でも、彩にとって嬉しいことに変わり無かった。腕を堅く組んで強く引っ張った様からも、それが窺えた。

 

「あ、コーヒー切れてる……」

 キッチンに立った彩が、空っぽのコーヒーの瓶片手に呟いた。彩自身はココア派だった為、そして高山も長らく来なかった故に買い置きも無い。

「ごめんなさい。高山さん、ココアでいいですか?」

「そんな、気い遣わんてもええって。急に押し掛けてもうた俺も悪いねんから」

 申し訳なさそうに振り返った彩に、リビングのカーペットに腰掛けた高山が応える。

 それを確認した彩は再びキッチンに意識を集中させた。やかんを火にかけ、ココアのお徳用パックから一匙二匙取り出し二つのカップを準備する。

 高山はそれをいつものように、微動だにせずじっと見ていた。

 ずっと前からそこにあった光景。しかし、違う点もある。

 高山が彩の後ろ姿を、穴が開くほど、ぞくぞくと寒気を感じさせるほど見ていたことか。そこからも記憶に強く焼きつけんとしているかとも取れる。

「あの、どうしたんですか? さっきから」

 寒気に耐え切れず振り返ってしまった彩に、別にと言わんばかりに高山は首を横に二、三度振った。そんな高山に彩は首を傾げながらも再びキッチンへと振り返るしかなかった。

 しばらく彩に集中させていた視線を、ふと下に落とすと一冊の本。『男性の心の扉をノックするお菓子百選』と大きく表紙に書かれている。

 何をするでもなく、その本をぱらぱらと捲っていく。表紙に嘘が無いことを強く主張し、特にチョコレートを材料としたお菓子が並ぶ。

「あ、それ……」

 本から再び視線を上げる。甘い香りを含んだ湯気がもうもうと立ち込める二つのカップが乗ったお盆を持たせた彩の姿が。付箋がついたページで止まった本と高山を見て、思わず洩らしていた。

「バレンタイン用のお菓子作りで参考にしようと思って」

 お盆を置いたと思った次にはもう高山からその本を引っ手繰っていた。反応する間も無い高山をよそに、くるりと背中を見せ両手で本を持ち、顔を赤らめた。

「じ、実は一ヶ月ほど前から練習していたんです。高山さんの為に」

 今日もまたその甘い香りが残っていたのだが、すっかりココアで打ち消されていた。

「ブラウニーとか、マカロンとか、いっぱい練習したんですけど、やっぱりシンプルにクッキーがいいかなって」

 顔を赤らめながらも高山へと振り返る。高山がただ黙って、自分だけをじっと見つめている。それが余計に恥ずかしくて、紅潮した頬を俯かせる。

 俯いたままココアを高山に勧め、自身もカップに口を付けた。ココアの甘さや暖かさが、火に油を注いでいるようで。もう、何も言えなかった。

 しばらくココアをすする音だけがそこにあった。暖かさや照れ、いろんなものが混ざって、今までとは違う気まずさもそこにあった。

「あの……そういうのって、言わない方がよかったんでしょうか?」

 それを打ち破らんとしていたのかは謎だが、空になったカップを見ながら彩が呟く。

「いや……そんなことないで」

 自然に、笑みが零れていた。

 一切の音を立てることなく、静かにカップを置いた。

 

 今日は顔が見たくて来ただけやから。その約束を忠実に守るかのように高山はココアを飲むだけでお暇を決め込んでいた。

「もう帰っちゃうんですか?」

 玄関先に立った彩の、寂しそうな瞳との見送りにも、今度は惑わされること無くうなずいた。

 そこから、以前ここを訪れていた頃からは想像できない真面目な顔つきへ変わっていく。

「……ありがとう、彩」

「いえ……」

 彩は彼を招き入れた時と同じ、にこやかに笑って応えた。

 高山も笑う。それは、へらへら、とは程遠く。――悲しみが強くて。

 だが彩はそれに全く気付くことなく、笑顔のままだった。彼の姿が消え、扉が閉まるのを見届けた後、再びキッチンに立った。

 さっきは空回りとなってしまった、気合を再び込める。

 再び彼の笑顔が見られるよう、『ありがとう』に応えられるよう。意識をそれだけに集中させ、真心を込めて手順を進める。

 携帯電話がけたたましく鳴る、その時までは。

 

 

 思えばあの時、彼は初めて私を呼び捨てにしていた。

 あの『ありがとう』には私が考えている以上に重い意味が込められていたのかもしれない。

 思い返せば、あれは――。

 鼓動が速い、体が震える、瞳の奥が熱い。

 溢れる思い。止められない。

「彩ちゃん?」

 まず扉がノックされ、次に返答を聞くことなく開かれ、最後に名が呼ばれた。

 そんなつもりはなくても、それは刺激を与える結果になってしまって。少女はわあわあと、火がついたように泣き叫んだ。

「どうして? どうして? どうして!」

 少女は、子供のように今隣にいる人物に泣きついた。

「どうして気付いてあげられなかったの? あの時ならまだ間に合ったかもしれないのに! あの時の私は、なんで……!」

 その人物は、ただ黙って少女を受け入れた。少女もただ、赤子のように泣き叫ぶ。

「私が全部悪いの!!!!!! 私のせいで、せいで……!」

 その人物は、少女の叫びを聞いてやることしかできなかった。違うと慰めても、その小さな体を抱き締めても、その黒い髪を撫でても、やらない方がましだと思えて。

 開けられた窓からは冷たい風が吹き、少女の髪も、人物の茶色い髪も、眠れる彼も平等に撫でた。