流石に三晩も経てば、看病疲れも現れてくる。

 夢現に舟を漕いでは意識を取り戻して目を擦る。この一晩、それの繰り返しだった。

 手はまだ、繋がれている。

 重い瞼が受け入れられるのは、彼の姿だけ。それ故に、ぎいぃと静かに開かれる扉にも気付くことは無かった。

 次に彼女の意識を取り戻したのは、がくんと動く首ではない。間近で焚かれた、強い光だった。

 あまりの光の眩しさに、そちらへと反応する。

 彼が兄貴と慕う先輩ではない。彼の良きライバルや可愛がっている後輩でも、昨日訪ねてきた色白の女性でも、ましてや世話になっている看護師でもない。

 強い光を焚いた機能的なカメラ。巧みに操られるボールペン。それを受け止めるメモ帳。

 ここには来ないだろうと高を括っていたものが、そこにあった。

「あ、あの……」

 途惑う彩をよそに、その人物は忙しくペンを走らせていた。

 人物はペンの動きを止めると、にやりと彩を見る。

「へへへ、どうも。これからも彼氏と仲良うしたってや。それじゃーねー」

 彩は、はいと返事をするしかなかった。

 バカに素直な子でよかった。辛抱強く藤井博実や伊藤一輝を追っていた甲斐がある。それらをぶつぶつと言いながら人物は去っていった。

 彩は呆然とそれを見送るしかなかった。

 

 

 一日が、とても長く感じる。十二月の今日、ここへ来るまでずっと思っていた。

 実家の父親に相談しようかと、携帯電話片手に何度悩んだことか。

 これは、自分そして彼の問題なのだからと躊躇したのもこれで何度目だろうか。

 ましてや、彼に電話など掛けられるはずもなかった。あの出来事に嫌悪こそないのに、彼を拒否しているわけでもないのに、何故かできない。

 そして、今日もまた。『オタマジャクシのタマオ』と睨めっこを繰り返す。

 メモリー欄を開くという日課になりつつある動作を前に、着信を確認する。相手は父親ではない。密かに掛かってきてくれればと願った彼でもなく。

 通話状態にした彩の耳に、低くて男らしい迫力のある声が響く。

「もしもし彩ちゃん、伊藤やけど。今大丈夫か?」

「は、はい」

「森下から番号を聞き出してん。心配になってきてな。高山のことはもちろん、彩ちゃんのことも」

 その声が、強い信頼を寄せている父親以上に頼もしく聞こえて。『風来坊』を自称とする実兄以上にしっかりとしていて。

「彩ちゃん? もしもし、どないしたん?」

 気がつけば、声は震え、息も苦しくなっていって。

「伊藤さん、私……」

 抑えきれない思いが一筋を零し、堰を切って溢れ出していく。

「私、どうしていいのか、分からなくて。高山さんの力になってあげたいのに、高山さんのことを本気で思っているのに、私、私……」

「彩ちゃん落ち着いて!」

 力強い声が、彩の心まで染み入る。

「明日あいつの家を訪ねてみようと思うねん。一緒に来るか?」

 はいと返事をしていた。もう二度と行くことは無いと思っていたのに。

 伊藤の一言が背中を押してくれたのだろうと、呼吸を整えながら納得していた。

 

 

 体を撫でる風は冷たく吐く息も白く。そんな中を伊藤と彩は歩いていた。

 この前の出来事が作り出した恐怖が、彩の足を鈍らせた。

 だが、彼女は逃げなかった。返事をしたのは自分であることに変わりは無い。伊藤がいてくれるという安心がある。そして、彼への思いは何よりも強かった。

 

「おい高山、おるんやろ? 開けろ」

 伊藤は高山の部屋の呼び鈴を押した。大声を出すことなくその名を呼んで。

 後ろに控えていた彩は、この前とは打って変わって素直に扉を開いた高山に少し途惑った。

 そしてあの時を思い返し、一人気まずくなった。当の本人は伊藤の存在だけに集中していたというのに。

「入ってもええやろ?」

 うんとうなずくだけで、二人を招き入れる形で再び戻っていった。あまりの素直な態度に今度は伊藤が途惑ったが、まだ気まずくしている彩の手を引っ張って中に入った。

 

 リビングに通された二人は、とりあえず椅子に腰掛けた。更にそれに向かい合う形で高山も座る。

 何を言うでもなく、高山はただ頬杖をつき二人を見るばかり。こけた頬や目の下のくまが相成って、無言の重圧が不気味だ。

 ここへ来るまでは微塵にも思わなかったのに。早く事を済ませて、帰りたいと。

 彩は俯いていた。目を上げればベッドルームへの扉がある。もう彼にはそんな気は無いだろうが、あの扉が恐怖への戻り道に思えてならなかった。

 重い。あまりに重苦しくて、押し潰されそうになる。

「……で」

 そんな中、一言を投じるという勇気ある者がいた。

「今日は何の用で訪ねてきたんですか? 彩ちゃんまで」

 それが高山だったから、二人は不意打ちを食らった。多少の投げやりが言葉に出ていたものの、嬉しく思えたのもまた事実だった。

「うん。みんながお前を心配しているんやでってことを伝えようと思てな」

 そんなことだけでわざわざ来たんですか。高山は言葉に出す代わりに、舌打ちする。

 冷静に行こうと思ったのに。伊藤の決意が崩れた。

「っていうのは建前。ホンマはお前の引き篭もりでみんなが迷惑してるって言いに来た」

 次に強く溜息を吐き、黒髪を掻き揚げる。

「ったく、なんで俺らがお前の尻拭いせなアカンねん」

 彩はおろおろとテニスの審判の如く二人を見るしかなかった。高山は、姿勢はそのままに顔を俯かせた。

「だいたいお前は昔からええ加減過ぎんねん。スキンシップといい、へらへらとした態度といい。どんだけ人に迷惑かければ気が済むねん。ここ一ヶ月ずっと胃薬の世話になってもうたやないかい」

 何も言えなかった。

「なんでこんなことになるかねえ」

 伊藤から挑発的な笑みが零れ、攻撃の手も緩まない。

「あ、分かった。お前が付き合うてきた連中にろくな奴がいてへんからやな。クズもええとこや」

 頬杖をついている手が、肩が、全身が突如として震えた。

「クズの仲間はクズでしかない。お前の昔の仲間って奴らも今頃他人に迷惑かけてんのとちゃうん? クズはいつまで経ってもクズでしかないんやな」

 バン!!!!!!

 頬杖をついていた両手が、テーブルが真二つに引き裂かれるほど強く叩いた。

 それは、無表情とは違う形の不気味さを持っていた。彼の顔があの時を再現していて。彩は、震えた。

「伊藤さん……!」

 完全に興奮し、声が震えている。

「いくらあんたでも、俺の仲間を悪く言うなんて許さへん……」

 最高潮にまで達した興奮は、今まで自分が座っていた椅子を蹴飛ばし、次にその右腕でテーブルを投げ飛ばした。

「俺はええ。俺がクズも同然やっていうのは嫌ってほど分かってるから。けど、俺の仲間はクズなんかやない!」

 最後に、その烈火の如く血走った目で伊藤を睨ませた。

 伊藤も負けるわけにはいかなかった。

 ここから離れた方がええ。伊藤は右腕で彩を後に下げ、彩も素直に従った。

「けど事実やん、この不良が。なんぼでも言うたるわ」

 クズ、クズ……と伊藤は馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。

 高山がその胸倉を掴み、黙らせようと詰め寄る。自分の中にある全力が出され、今にも首が絞められ殺してしまいそうだ。

「ん? 何やねん? ホンマのこと言われてんのに何でキレんねん?」

 それでも伊藤は怯まず、冷静に睨み返し右腕をガッと掴む。柔道有段者の力はギリギリと強く、徐々に服から離されていく。今にも砕け散ってしまいそうだ。

 彩は部屋の隅で蹲り、震えた。

「また投げ飛ばされたいんか?」

 体が震える。思考は既に止まっている。瞳はちりちりと熱い。力が抜けていく。

「うわあああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 高山は奇声を上げ、残った左腕で伊藤を突き飛ばした。それと同時に解放された右腕と共に頭を掻き毟り、両膝をついた。奇声は止まらず、金髪がごっそり抜けてしまいそうなほど力強い。

 そんな高山にまったく構うことなく、伊藤はふうと一つ息を吐き、崩れたシャツの襟を整える。

 まだ震えている彩の手を強引に引っ張り、逃げるように部屋から去った。

 彩は最後にちらりと、頭を抱えて蹲り震える彼の姿を見るだけしかなかった。

 

 

 自分がどこへ向かっているのか。彼女をどこへ連れていくつもりなのか。

 伊藤はそれに全く構わず、ただずんずんと街中を歩くばかりだった。周りの通行人は、彼らに道を譲る形で自然に離れた。

 彩には自分が誘拐されているようで、とても怖く思えてならなかった。

「あ、あの。伊藤さん、痛いです。離してくれませんか?」

 彩の言葉に、伊藤はようやく我に返った。彩にとってそれが唐突過ぎて、伊藤の背中に頭をぶつけてしまう。

「怖かったか?」

 ぶつけた頭を擦る彩を全く気遣うことなく、振り返った伊藤が話を切り出す。

「わ、私……」

 何故高山さんの仲間にまで悪口を言ったの?

 何故高山さんを怒らせるような真似をしたの? 何故? 何故? 何故?

 たくさんの『何故』が、彼女を混乱させる。言いたいことはたくさんあるはずなのに、うまく整理ができない。

「仲間のことまで悪く言うた俺を、あいつはどう思ってんねやろな」

 言葉に詰まる彩の心を見透かすかのように、伊藤が呟く。

「けど、誰かがやらなアカンねん。そう、誰かがな」

 そう言ったきり、伊藤は天を仰いだ。そして目を閉じ、凶器の如き冷たい風を受ける。

「私、伊藤さんが何で高山さんたちにお兄ちゃんのように慕われているのかが分かったような気がしました」

 不意に彩の声が聞こえ、視線を落とす。

 そこには、今日初めて見る笑顔があった。何かに安心し、何かに魅入られ、心の底から滲み出る笑みが。