「ったく、どないなっとんねん」
大阪市内の某スタジオで。今日もまたいつものように撮影が行われるはずだった。
「二ヵ月前は暴力事件、一ヶ月連続で遅刻、今日はドタキャンかい」
それに参加していた伊藤と森下を前に、今回の監督役が溜息混じりにぼやく。
「ホープのモデルさんもええご身分になったもんやな!」
怒り心頭。監督役は二人を、そしてまだ来ぬ彼を睨み罵声を浴びせた。
森下は必死に頭を下げ、その横で伊藤は携帯電話を取りだし掛ける。
そこから流れるのはぼやきの元となった高山の声ではなく、非情にも留守番電話サービスの機械的なアナウンスだった。
通話を切り、再び掛け直す。アナウンスの途中で切り、再び掛け直す。それらを繰り返す伊藤の、腕が震え貧乏揺すりも増えていく。森下は必死にそれもなだめていた。
あれから、高山は僅かながらも残っていた仕事をこなしていた。
しかし、暴力事件のイメージや完全に消え去った笑顔も相成って、以前のような好評を得られず順調とは到底言えるはずも無く。
そればかりか、今日ここまで遅刻を繰り返すばかりで周りの評判は奈落の底へと落ちていった。
そんな中でも伊藤は大切な後輩である高山を必死に庇い、藤井たち後輩もまた信じていた。
その暴走を止めるのに胃が痛くなる日々が、へらへらとした彼が、四人揃って笑顔での撮影が、戻ってきてくれると。
しかし、現実は彼らを裏切るばかりだった。
うちの社長がどれだけ頭を下げ続けたのか分かっとんのか、あいつは。
今にも沸点に達しそうな心。交代する形で監督役に頭を下げていた伊藤は、左の拳を背中に回してぐっと握り締めることで冷やした。それでもしこりはまだまだ残っていたが。
その横で今度は森下が携帯電話を取りだし、どこかへと電話をかける。
一方、平和でまったりと時が進む、やはり大阪市内にある某大学では。
味もメニューも申し分の無い食堂にも、そばに設置されたテラスにも、腹を空かせた学生たちで溢れている。
他には見向きもせずただ腹ごしらえだけに集中する者。自動販売機のコーヒーと食堂で売り出すクッキーを片手に読書を嗜む者。
そして、食事を囲んで友達とのお喋りを楽しむ者。彩はその中にいた。更には沙希もいる。
「……でな、彩ちゃんの場合……」
彩は自作の弁当を口にし、友達の一人の語りに耳を傾けていた。
授業や嫌いな教員に対する愚痴から、いつのまにか恋愛談義へと変わっていく。
そんな滑稽さと、弁当の美味しさに笑みを浮かべていた。
バッグに入れていた彼女の携帯電話が、着信音を発するまでは。
そこにいた全員に断りを入れ、液晶画面で森下からのものと確認し通話状態にする。
「もしもし、彩ちゃん? 僕です、森下です。今大丈夫?」
「え? (沙希たちを見る。私たちなら気にしないでという返事を聞いて)はい、大丈夫です」
「よかった、まだ授業中かなって思ったんだけど」
電話向こうの森下の、声が慌てているのだが彩は全く気付かなかった。
また今日も新作デザートが発表されたファミレスの情報を教えてくれるのかな。彩はそんな期待に胸を膨らませていた。
「彩ちゃん、あの、高山さんのことなんやけど……」
森下が切り出した話に、彩は目を丸くした。あまりに期待と正反対に位置し過ぎて。
「え? 高山さん、仕事に来ていないんですか?」
思わず声を上げてしまった彩に、沙希たちだけでなく他のテーブルの人間まで注目する。
「うん、で、彩ちゃんなら何か知ってるかもって思って」
「ごめんなさい。私も高山さんの家に全然行ってないんです。だから……」
「そうか。ゴメンね、急に電話してもうて」
「いえ……。あ、私、今日の授業が終わったら、高山さんの家に行ってみます」
「うん、ありがとう」
それじゃあとひとまず区切りをつけ、電話を切った。次にゴメンねと同席の友達に言う。沙希を含めた全員、何かに納得する笑みを浮かべてうなずいた。
他のテーブルでは、隣同士の人間が声を潜めて話し合っている。その中には色めいた単語も聞こえる。こんなひそひそ話や噂は今に始まったわけではない。
もっとも、彩には全く意味を解することができなかったが。
大学より離れた激安のスーパー。買い物を終えビニール袋を下げた彩がそこから出てきた。
真面目に授業に出席し終え、足早に向かうは彼の家。
森下との約束を果たす為、そして何より彼のことが心配だった為。
そんな思いが、彩の足をますます早めていく。
高山の現状は甘いもの食べ歩き友達の森下や、自分たちを実の兄弟以上に心配してくれている伊藤から聞かされていた。しかし、それ以上にまで問題は発展したなんて。
駆け足で、一直線で、彼の元へと向かっていた。
セキュリティ万全なマンションに着き、管理人に事情を話してロックを解除してもらう。彼に頼んでも門前払いを食らうか居留守を使われるかのいずれでしかないから。
エレベーターが彼の部屋の階層に向かう僅かな時間も、まるで一年以上の歳月が流れているかのように感じられる。
そんな普段からは想像できない自分に振り返る間もなく、走っていた。大好きな彼に通じる唯一の道である扉へ。
扉の前に着き、ひとまず軽く深呼吸する。とりあえずでも落ち着けたところで、呼び鈴に指を伸ばした。
「高山さん!」
ベルが何度鳴っても、扉はうんともすんとも言わない。彼女は焦りから、彼の名を大声で呼んでいた。何度も何度も、アリババの呪文の如く。周りの迷惑も顧みず。
指が痺れるほど呼び鈴を押し続けた。息が切れるほど彼の名を呼んだ。それでも、扉は開かない。
この扉が閉ざされた彼の心を暗示しているようで。彩の焦りも、そして諦めも頂点に達していた。
ここから去ろうと身を翻したその時。静かに扉は開かれ、彼は身を乗り出す形で現れた。
彩は軽く安堵の息を洩らし、次に笑顔を見せる。ここへ来る前からずっと決めていた。まず大好きな彼に、笑顔を見せて安心させてあげようと。
目は虚ろ、その下にははっきりとくまができ、頬はこけ、カラメルの如く黒が顔を覗かせる金髪はぼさぼさ。
不気味。自分の前に現れた高山を見たその途端、笑顔はぎこちなくなっていく。
「あ、た、高山さん。お久しぶり……です」
それを殆ど誤魔化す形で、ビニール袋を見せつつ彩が口を開いた。
「森下さんから聞きましたよ。最近、元気が無いそうですね」
虚ろな目がそこにあるだけ。彼はそこにいるだけ。
「それで、今日は高山さんの為にシチューでも作ってあげようと思って。今の季節じゃまだ暑いかも……」
全て言い切らないうちに、彩はぐっと腕を引っ張られていた。
次に、ビニール袋の中のじゃがいもやにんじんが散乱する。
それを顧みる間もなくベッドルームへと乱暴に連れ込まれ、潮風を思わせる青がその体を受け止める。
天井を捕える間もなく、彼の無表情な顔がその目に映る。彼の腕が自分の体を抑えこむ。
「――高山さん?」
格闘技経験のある男性と、小柄でスポーツも苦手な少女。力の差は歴然だった。
高山さん、一体どうしたんですか?
押し倒されている今、それを口にすることができなかった。
その前に、彼が自分のブラウスのボタンに手を掛けていたから。
有無を言わせる間もなく、ボタンは一つ一つ外されていく。ブラウスの下の、白いシャツが姿を現した。
「高山さん、あの……」
彩は弱々しくも、言葉を紡ぎ出した。しかし高山には届いていなかった。届いているのにいない振りをしているのかもしれない。
無表情のまま、手はシャツに掛かる。
体が、震える。もう体を抑えこまれていないというのに、何故か動けなかった。
シャツが捲られて、純白の下着が露になる。
震えが止まらない。今目の前にいるのは大好きな、彼のはずなのに。
叫びたいのに、声が出ない。――でも。
――これが、彼の為になるというのなら。
彩は、全てに身を任せた。その目を堅く閉じ、口もぎゅっと噤んで。
「……で」
ここへ来て初めて聞こえた声に、目を開ける。彼も震えていた。
「何で嫌がらんねん」
その手は、自分の体を触っていない。
「嫌なら嫌って言えや」
違う。そう言いたいのに、何故か言葉として出てきてくれない。
「これやったら俺は……あいつと同じやないか! あの時も……」
高山はベッドから落ち、両膝を突いて金髪を掻き毟っていた。
その姿が、ここから出ていってくれと訴えている気がして。彩はシャツやブラウスを整え、黙って足早に去るしかなかった。
こうして歩いていても、まだ甦ってくる。
押し倒される自分、震える自分、震える彼、金髪を掻き毟る彼。それらが鮮明な一つの映画のようで。
彩は自分の家へと戻る途中の道で、自分の両肩を抱きその場にしゃがみ込んだ。周りはそんな彼女を好奇の目で見るが、本人は全く気に掛ける余裕すらなかった。
私のしたことって、何が間違っていたの?
姿勢を崩さず、一人記憶と問答に苦しんでいた。
左腕に下げていた、バッグから携帯の着信音が鳴り響くまでは。
取り出した携帯の、液晶画面に表示された森下の名前に何故か安堵を覚え通話状態にする。
「あ、もしもし彩ちゃん? 僕です、森下です」
「森下さん……」
何故だろう。
「彩ちゃん、どないしたん? 声が震えてるけど」
「え、あ……」
何故か、今になってから泣きたくなってきた。
しかし、次の瞬間には自分を奮い立たせていた。
「いえ、何でもないです」
「そっか、ならよかった。ところで、高山さんのことだけど、どないやった?」
「あー……その……」
右手に携帯を持たせ、しゃがみ込んだまま黙り込む。――言えるわけない。でも。
「高山さん、元気にしていましたよ。でも、風邪気味みたいで」
しまった、これではあまりにも矛盾している。
「そっか。よかった」
森下が予想以上に素直であったことに、彩は心底感謝した。
「それなら僕も、伊藤さんも、藤井さんも、みんな心配しているってことを伝えておいてくれへん? ゴメンね、頼んでばかりで。でも、僕たちじゃきっと話を聞いてもらえそうもないから」
はいと、力ない返事の後電話を終わらせた。ほぼ強引に。
こうでもしないと、全てが崩れ去ってしまいそうで。
何もかもが、怖かった。