「いやあ、今日の仕事めっちゃ楽しみですねえ。なんたって水着のお姉ちゃんがわんさかいるわけやし」

「終わったら、いや休憩中にでも即ナンパ、やな。よっしゃ、気合入れるで! 森下、藤井、お前らも付き合え!」

「伊藤さんも梓さんをデートに誘えばええんですよ。梓さんの水着姿、拝み倒したいでしょう? 俺もいつか彩ちゃん誘ってみようかなー。彩ちゃんって意外とええ体つきしてるんですよ。本人はぽっちゃり太目だって気にしてるみたいなんですけどねえ、そのままでええのに」

 太陽が燦燦と照りつける、八月の空の下。

 鮮やかな青い海を臨む街外れの静かな道を、一台の車が走っている。

 伊藤がその車を運転している。デートなど浮かれたものではなく、助手席に高山、その後に森下、更に隣に藤井、というメンバーから語るまでもないだろう。

 車内は、怖いほどに静かだった。

 助手席の高山が騒げば後の森下や藤井は愛想笑いにうなずくしかなく、暴走を止められるのは隣で運転する伊藤だけ。それが、車移動時の常だった。

 高山が騒げば急ブレーキが掛けられ、静かになったと思ったらすぐに騒がしくなりまた急ブレーキが掛けられる。その繰り返しで、遂には車で移動する時はいつもより二時間も早く出発するという暗黙の掟までできあがってしまった。

 だが今日は、それもない。いつもの賑やか過ぎる会話は、今は伊藤の脳内だけで虚しく展開されている。いつも騒いでいる、あいつが今日は静かだから。

 高山は乗ったそばからただ黙って外を見るばかりだった。

 走り始めて三十分経った時点で沈黙に耐えられなくなった伊藤がラジオをつけたが、DJの軽快な喋りから重いニュースに変わった途端に高山が不機嫌な顔へと変わってしまった為に切られている。もうニュースは終わっているだろうが、何故かスイッチに指を運ぶことが出来ない。

 

 あの日から、高山は仕事でも、そしてプライベートでも笑顔を見せなくなってしまった。流石に撮影では笑顔を見せているが、無理矢理作られたものであることが悲しいほど分かってしまう。

 常にへらへらとしていて、休憩中はギャグを言って盛り上げる、仕事でも然りで『あいつは下手な若手芸人よりもトーク能力もギャグセンスもある』と評判で関西ローカルバラエティでも重宝がられている。明るく女好きでお調子者。それが高山だったのに。

 高山の表の部分しか知らない人間たちは、女関係で何かトラブルでもあったのだろう、と憶測だけを巡らせていた。彩の土日の提案が実行されていないという事実を知ってから、高山の素の部分を知っているはずの伊藤もまた、それに同意していた。そしてどうせすぐに本来の高山に戻るだろうと伊藤を含めた皆、高をくくっていた。

 

 現実に裏切られた。伊藤はそう思うしかなかった。一週間以上経った今でも、高山に自然で明るい笑顔が戻ってこない。今もこうして、暗い顔で外を見ている。

 外を、臨む海を、日の光を浴びて輝き世界の果てへも繋がる海を、自分の名の由来となった海を、何を思いながら見ているのだろうか。

 ――海のように大きく健やかで、心優しい男の子に育って欲しい――

 それが、雑誌のモデル数人によるインタビュー企画で伊藤が知った高山の名前の由来。両親を嫌悪していたにも拘わらず覚えていた。さらに聞けば、名付けたのは母親だという。

 もしかしたら、もしかしたら高山は――。出かかった思考を、伊藤はアクセルを踏みこむことで掻き消した。

「もうすぐ海ですねえ。めっちゃ楽しみや。今日は何匹連れるんやろ? もっとクーラーボックス持ってくればよかったかな? あ、もしかしたら鯨が釣れてまうかも」

「今日は仕事で行くんやで。釣りなんてしてる暇ない」

 川といえば、湖といえば、海といえば、真っ先に釣りを連想してしまうほど釣り好きの藤井が、竿を巧みに操るジェスチャーと共に吐いた、棒読みな一言。伊藤はそれを「お前バラエティ向いてへんで」も付け足して、運転を続けながら一蹴する。藤井は黙るしかなかった。

 車は走る。こんなに車での移動がスムーズにいったことがあるだろうか。

 結局現場には二時間、それ以上も前に着いたというのに何故か安堵感はなかった。いつもはぎりぎりで駆け込む羽目になり胆を冷やしているというのに。

 

 

 太陽がぎらぎらと照りつける。波は穏やかに、時に激しく打つ。心地よい、癒しという表現がしっくりくる潮風が吹く。八月とはいえ平日故か、人は少なく足の踏み場は十分にある。

 そんな関西の海水浴場を、撮影隊は準備に走り回っている。カメラ等機材のチェックに追われるカメラマン、撮影の段取りを再確認するスタッフ、水着やTシャツ、アロハシャツに着替えつつ今日の衣装や段取りを再確認する伊藤たち。皆息を吐く間もないほど、慌しく動いていた。

 今日は日が沈むまでびっしりとスケジュールが詰まっている、とはスタッフの弁。これは本当に、藤井が用意してきた釣り道具一式は車のトランクの中で眠り続ける羽目になってしまう。

 海を強調したイメージの、爽やかなTシャツに袖を通しつつ藤井は子供のように文句を言うばかり。伊藤と森下は見ざる、聞かざるを通した。その仲間に入ったつもりはないのだが、高山はただ、黙って着替えを進めるのみだった。伊藤はそれが気になって、着替えにいつもの約二倍の時間を要してしまった。いつもならここでも騒いでいるのに。

 撮影開始まで、四人は暇を持て余していた。段取りで今髪を濡らしてはいけないから海に近づくこともできず、浜辺から周りを見ているしかなかった。

 そんな中でもファンサービスは忘れない。少女たちの黄色い声、差し出されるペンと紙、求められる握手は四人それぞれの人気を映し出している。今日行われるのは交流会かと間違われるほど多かったが、一番は高山だろう。

 藤井がTシャツ姿の少女に握手をし終えたとほぼ同時に、またも高山にビキニ水着の少女がやってきたがその手には何も持たせていない。おそらく握手と話だけが目的なのだろう。少女は満面の笑みで甲高い声と共に話を切り出すと、高山はそれに応えた。しかし、笑顔はない。贔屓目に見れば笑っているようにも思えるが、やはりぎこちない。遂にはむすっと、うざったく思っているようにさえ見える。

 そんな高山に少女は不満と溜息を覚え、もういいと言わんばかりに早々に話を切り上げ、本来の連れである同年代の少女二人の元へと戻っていった。そこで繰り広げられるのは高山の今の反応に対する愚痴合戦か。

 高山は何も思わなかった。素の、ナイーブな自分にがっかりされること。いつものことだから。もう慣れているから。それに、今は考える余裕すらないから。一番離れた位置にいる伊藤は、それに見て見ぬふりを決め込みまたやってきたファンへのサービスに精を出す。

「高山さん」

 またも耳に届く少女の声に、高山は軽く舌打ちしながら顔を上げた。

 その少女はファンではない。しかし追い返すような真似はしなかった。

「ああ、彩ちゃん」

 そこにいた少女、もとい彩の姿を見ても特別驚きもせず、至って普通の反応を見せた。しかしいつものように仲睦まじく、軽快に話も展開させられない。

 あの日から、二人の間には気まずさ以外の何物もなかった。これが久々に交わした会話でもある。

「彩ちゃんも来てたんやね」

「はい。今日は現地集合だったんです。沙希ちゃんは来てませんけど」

 その代わりとも言うべきか高山の隣にいた、緑を基調としたアロハシャツの森下が彩と話を始める。彩も、森下も、笑顔を見せて本当に楽しそうだ。

 そんな二人を見ても、高山は何も思えなかった。嫉妬も沸き上がらない。

「うん。でな……」

「あ、ごめんなさい」

 満面の笑みで話し続ける森下を、彩が制した。

「ごめんなさい。あの、高山さんと話がしたいんですけど、いいですか?」

「え? あ、はい。どうぞ」

 何で勝手にお前が答えんねん。高山は森下を睨んだが、当の本人は全く気付くことなくやってきた中年女性のファンに対応する(ちなみに森下のファンは中年女性が多い。どうやら森下は、可愛い息子というイメージで見られているようだ)。

「高山さん」

 高山の視界に彩の顔がズームアップされる。やはり全く驚く様子もなく、ああと生返事だけで済ませる。

「今度は大声出さないで、ちゃんと聞いてくださいね」

 分かってる、を口にしない。それが、高山の返事だった。

「あの時のことなんですけど」

 ――何で蒸し返すねん。思い出したくなかったのに。

「私、謝りませんから」

 ――何でいちいちそんなん言うねん。

「私、あれから一週間経ってから、おばさんに頼まれておじさんに会いに行きました。おじさん、高山さんのことをずっと呼んでいました、『かい……かい……』って。おばさんは本当に高山さんのことを心配しているし、おじさんも会いたがっているんですよ」

 ――何で余計なことすんねん。お前には関係ないやん。

「私には分かるんです」

 ――私には分かる、か。所詮それは、ファザコンの意見でしかないやん。

 自分でも、自分が分からない。本当は、どうしたいのか。あの時だって、本心から出た言葉ではないのに。

 父親を蔑む自分がいる。父親に会いたい自分がいる。どっちが、ホンマの俺なんやろ。

 高山は、ずっと答えの出ない問答にぶち当たっていた。

「それじゃあ私、もう行きますね。チーフが呼んでるから」

 また後で、と彩は森下にも軽く手を振り、行ってしまった。全てを吐き出した、すっきりとした顔で。言いたい事を言うだけ言ってくれて。

 それから撮影が始まるまで、高山はずっと不機嫌だった。そんな彼には全くファンは近寄らない。遠巻きに避けるのみ、だったが当の本人は全く無関心だった。他の三人はそんな彼が終始心配でたまらなかったが、ファンへの対応で気遣う余裕もなかった。

 

 

 飽きることを全く知らずに照りつける太陽、穏やかな波、爽やかな潮風。殆ど秒刻みでシャッターが切られ続けるカメラ、その動きをサポートする機材、それを操る数人のスタッフ、今日の主役である四人のモデル。

 撮影は順調に進んでいった。たった一つ、彼のことだけを除けば、だが。

 相変わらず、彼には本来の評判高い笑顔が戻ってこない。おまけにスタッフとして働く彩と目が合ってしまって気まずく、目を逸らしてポーズが狂うこと数回。それでカメラマンに注意されること数回。それさえなければ、皆溜息混じりに吐いていた。

 だが皆は知らない。彼が影で、自己嫌悪そして葛藤していることを。

「とりあえず、休憩入れようか。その方が高山くんもリラックスできるやろ」

 カメラマンの一言に、皆が賛成した。

「よし、ここで一旦休憩。休憩明けに視察で『レスト出版』の若社長が到着されるから、皆より一層気を引き締めて取りかかるように」

 元気のいい返事と共に、皆それぞれに散っていった。

 

 休憩中、やはり四人とも暇を持て余していた。今度は髪を濡らしても撮影に支障は出ないものの(ちなみに伊藤と藤井は撮影の段階で既に濡れていた)、泳ぎたいという気分ではなかった。

「僕、その辺を歩いてきます」

 誰に言うでもなく森下が言い、当てもなくぶらぶらと浜辺を歩き出した。

 時々立ち止まって潮風をその身で受け止める。それが通行の邪魔になり、何度も謝る羽目になるというのになかなか止めようとしない。いかにも自然や動物が好きな森下らしいと、それを遠目で見ていた伊藤は思った。しばらくそれを続けていたが、どうしても気になり視線を高山にやる。

 高山は海だけを見ている。それも、悲しそうな目で。

 いつもなら、その目には一点の悲しみもなく、水着姿の女性だけを見ているというのに。

 「俺は、俺は……」とまるで呪文のように口にしている。

 いつもなら、自分に全信頼を寄せ全てを話してくれている、というのに。

 こんなに気の休まった休憩があっただろうか。

 いつもなら、ナンパや他事務所の男性モデルへのスキンシップを図らんとしている彼の御守りで神経が疲れ果てている、というのに。

 そして、こんなに神経を疲れさせる休憩があっただろうか。伊藤は徐々にそんな思いにも駆られ、遂には高山を見るのを止めてしまった。視線をまだぶらつく彼へ戻す。

 次に見た状況に、伊藤は目を丸くしていた。

 森下が何か、揉めている。暗くなる前の、お調子者な高山ならまだ分かるのに。優しく争いを嫌う森下が、揉め事を起こすなんて。――どうかしている。

 遠目でもそれは確認できたが、徐々に野次馬が集まって遂には囲まれて見えなくなってしまう。伊藤はがばっと起き上がり、森下の元へと走った。野次馬根性か、藤井も走り出す。行くのを渋った高山の腕も無理矢理引っ張って。

「だから、この子は邪魔するつもりで砂のお山を作っていたわけとちゃうんでしょう? なんでそんなに責める必要があるんですか!」

「せやけど通るのに邪魔やし。こんなところで砂遊びする方が悪いんやん」

 ブランドと高級さだけを全面に押し出したデザインで趣味の悪そうなシャツを着た青年。それに対峙しているのが森下。森下のそばで、小さな男の子が泣いている。

 小さな男の子が一生懸命に作っていた砂の山を、趣味の悪いシャツの青年が踏み付けて壊してしまった。それが原因で男の子が泣き出したが青年は謝る素振りも見せずずかずかと歩き出した。一部始終を見ていた森下が、青年に謝れと詰め寄るも自己中心的な主張をするばかり。最初は冷静に事を進めようとしていたが遂に怒りが頂点に達してしまい、青年に掴みかかった。

 それが、伊藤が何かあったのかと近くの中年女性に尋ねて返ってきた答えだった。

 口論はなおも続く。

 伊藤は人だかりを掻き分け二人の間に割って入り、なんとかこの場を納めようとなだめる。しかし伊藤ら先輩には従順なはずの森下は引き下がらないしシャツの青年も森下はもちろんのこと伊藤までも見下している。このままでは、伊藤までも巻き込んだ騒動になり兼ねない。

「あ、伊藤くん、森下くん、止めなさい!」

 しかし伊藤も含めた彼らの矛は、同じく人だかりを掻き分けてきた女性スタッフ数人の声で納められることとなった。女性スタッフらは伊藤と森下の前に立ち、深く頭を下げた。

「申し訳ございませんでした、若社長」

「若社長?」

 キョトンとするしかない二人の頭を、女性スタッフは無理矢理下げて言う。

「伊藤くん、森下くん、この方はさっき言った『レスト出版』の若社長さんよ」

「こいつがぁ? こんな、自己中心的な奴がしゃちょ……」

 何てことを言うの。森下の頭を無理矢理下げていた、女性のチーフスタッフは腕力を強めて口を封じた。森下は屈するしかなかった。胸の中に、もやもやとしたものが沸き上がってくるのを感じ取りながらも。

「申し訳ございませんでした。うちのモデルが何か無礼を働いてしまったそうで……」

 ここは素直に謝るべきや。伊藤はアイコンタクトだけで森下に訴えた。――裏切られた。

「……すいませんでした」

 押し出された心太のように感情のない、言葉。若社長はフッと鼻で笑い見下す。

「ん、まあ……ここはホープさんへの好意で許したるけど?」

 悔しかった。今は、その言葉しか出てこない。その笑みが一寸前に自分と、自分が庇った男の子に向けられたものと全く同じで。

「ほんならお詫びも兼ねて、後でメシ付き合うてもらおうか」

「はい。申し訳ございませんでした」

 森下に向けていた笑みを、今度は女性チーフスタッフへと向けた。嘲りも嫌味もない、それは明らかに、好意だと分かるもの。

 森下にとって、今のこの状況は最大の屈辱だったに違いない。

 藤井に引っ張られて一番前へ来る羽目になった高山は考えていた。

 

 森下が現在思いを寄せているある年上の女性カメラマンに、あの若社長も仕事終わりの度に言い寄っているらしい。どら息子の戯言と女性カメラマンは軽く聞き流してはいるが、もしかしたら満更でもないかもと思っているのではないか。

 しかし若社長は無類の女好きで、その女性カメラマンだけではなく女性とあれば見境なく口説いているらしい。そういう噂も流れている。事実ルックスはよいので女性の人気はあったが。

 暗くなる前の高山が、いつものようにナンパに誘った時に森下本人からついでに聞き出した事実である。

 

 ――伊藤さん、どうしてあんたが森下を庇ったらんねん。今の森下を庇えるのはあんただけやったのに。最低やな。

 高山の拳が、震えた。人が多過ぎて、すぐ隣の藤井を含めて気付く者は皆無ではあったが。

 二人はまだ、頭を下げた姿勢のままだった。

 それらに全く構うことなく、若社長は女性スタッフたちを順に見ている。どうやら自身で言った『食事の相手』を物色しているようだ。それがまるで愛人にしたい女性を選ばんとしているようで厭らしく、スタッフたちは不快を覚えたが無下にそれを出すわけにもいかなかった。

 野次馬として参加していた二人は、若社長の無言のプレッシャーにやられて動くことができない。

「キミ、可愛いな」

 その言葉と共に一人の少女の、今日の仕事で程よい色に焼けた腕を握った。

 ――彩……!

 腕を握られた少女、もとい彩の瞳に若社長の厭らしい表情が映る。

 その手を解こうと力を篭めるも、そうはさせまいと相手が爪を食い込ませていて叶わない。やり口が汚い。

「めっちゃ可愛いやん、お嬢ちゃん」

 お嬢ちゃん――その言葉にますます不快が強まった。

 力を篭めれば自分の腕が傷ついてしまう。抵抗する手段を奪われた上に子供扱いまでされている。

 屈辱以外の何物でもなかった。

「決めたわ。今日の相手はお嬢ちゃん、キミに。さ、お兄さんが色々教えたるからな」

「私、お嬢ちゃんなんて呼ばれる年じゃありません。これでも大学生です、子供扱いしないで!」

 これが、今の自分にできるせめてもの抵抗だった。しかし。

「藤崎さん、逆らっちゃダメ」

 隣にいた先輩女性スタッフが自分に耳打ちする。所詮この世は権力が全てか。

 彩は、黙るしかなかった。

「へえ、そうかそうか。ゴメンなお嬢ちゃん」

 何とも厭らしい目で、上から下までじっくりと、舐め回すように見つめている。

 このスケベ。その言葉もぐっと飲み込むしかなかった。

 震える拳から血が一滴、また一滴ぽたり、ぽたりと零れて砂に混じる。

「ふーん……なかなかええ体してるやん。なんとも健康的で、ええ具合に育ったなあ」

 再び視線が彩の顔に定まった所で、笑った。ここへ来て最高に、厭らしい笑顔。

 投げかけられた厭らしい笑顔が、あの日の記憶を、自分を助けてくれた彼の言葉を引き出してしまう。

「い、いやあぁっ! 離して! 誰か、誰か助けて!」

 彼女は、叫んだ。彼の心が、真っ白になった。

 生意気な。そう言わんばかりに若社長は手に力を篭める。

 先輩女性スタッフが再び彩に忠告しようとした、その時。

 先輩女性スタッフも、彩も、いつのまにか顔を上げていた伊藤と森下も、藤井も、そこにいた者全てが息を呑み、動くことができなかった。

 たった一人を残して。

「っざけんなあっ!!!!!!」

 彩の腕は、いつのまにか解放されている。薄らと赤く握られた痕が残っている。

「このクズ野郎!!!!!!」

 若社長の顔が歪み、抜けた歯が宙を舞う。頬に、右ストレートが炸裂して。

 その体を砂に叩きつける間も与えずに全身を、打つ、打つ、打つ。やられた相手はまるで、人形のようだ。

 遂に若社長の体が砂に受けとめられても、今度は馬乗りになり殴る、殴る、殴る。

 情け容赦はしなかった。瞬間移動の如く彩を助けに入った高山の、その目は血走り、元々きりりとしている眉は力強く、粉々に砕け散りそうなほどに歯を食いしばり、興奮し顔は真っ赤だ。

 ショックで動けなかった彩だが、ようやく正気を取り戻す。

 しかしその次の瞬間にはもう別のショックに襲われていた。

 目の前で、彼が人に暴力を振るっている。しかも相手は反撃の隙も与えられずに一方的にやられている。体中の至る部分に青痣や打撲の痕を残し、口の中が切れて血がたらりと一筋を落とし白目までむいている。

 まだ土日の提案を実行していた頃、彼は確かに言ったのに。無抵抗の人間に対する暴力は世界で一番嫌悪しているものである、と。

「高山くん、止めなさい!」

「高山!」

 慌てて女性チーフスタッフたちが止めるも全く聞き耳持たず。

 ボクシング経験のある高山を凌駕する腕力の持ち主である伊藤でも止められない。

 自分の邪魔をする者も全部敵。その歪んだ認識が伊藤のタンクトップの胸倉を掴ませる。理性の箍が緩んだ拳の向かう先は、尊敬してやまない先輩の体。

 その先輩は、腕力での抵抗を由としなかった。眼力は緩めなかったが。

「止めて! 高山さん! 止めて! 止めてよ……」

 振り被った右腕が、機械のスイッチが切られたかのようにその動きを止めた。

 伊藤はふうと一息吐きタンクトップを整えた。

 止まった右腕には、彼女の震える手。その声も震える。

「お願いだから……」

 ようやく理性を取り戻した高山は、じっと両手を見ていた。殴った時の衝撃でひびが入ったらしい、血が流れている。その手で頭を掻き毟り、金髪にも血が染み込む。

 

 この後、海の家の人間が呼んだ救急車によって若社長は病院へ運ばれ、全治二ヵ月と診断された。もちろん撮影も中止となってしまう。

 帰路についた車の中では、やはり沈黙が支配していた(彩はスタッフたちと帰った)。より空気も重く感じられる。より暗く、苦悩までも加わってしまった高山がもたらしたものか。

 

 

 この後日、『レスト出版』側の厚意と社長必死の交渉で高山は謹慎を免れることができた。

 しかしこの日を境に、彼に僅かながらに残されていた笑顔が完全に消え去ってしまった。

 もう、彼の笑顔のグラビアが見られることも無くなった。

 軽快なトークを広げられない、暗い人間に出られても。という理由で、準レギュラーとして出演していたバラエティも降板させられてしまった。

 真っ暗。とにかく真っ暗だった。