外のプレートは『高山海』から『藤崎一輝』と彩の名字と伊藤の名前を足したものに変わっている。これも、彩の頼みを聞いて実現したもの。

 幸い、文にはここのことがばれていない。高山の父親の部屋とは階層も違い更に正反対の方角にある為文がここへ来ることもない。伊藤たちも顔を合わせていないし仮にそうなったとしても口に出さないという意志は堅い為、意識して流したりしなければずっとばれることはないだろう。

 高山の手術が成功してから二晩明けたというのに、彩はまだ一睡も摂っていない。手もまだ、繋がれている。

 眠っている高山のパジャマも変わっているが、これも彩が体に障らない程度に優しく拭いて(ちなみに包帯は看護師が取り替えた)着替えさせたものである。

 今日もまたやってきた伊藤とコンビニのビニール袋を右手に持たせた藤井がここへ着いた時、現状に高山はもちろんのこと彩のことも心配した。

「彩ちゃん、もしかして全然寝てへんのとちゃうん? メシは?」

 故意に聞き流そうとしているのかただ聞こえていないだけなのか、彩は応えようとしない。

「よし、高山さんのことも心配やけどここでメシにしよ。彩ちゃんの好きそうなカップケーキも買うてきたから、一緒に食べよ? な?」

 藤井が手に下げていたビニール袋からカップケーキを取り出し彼女にちらつかせるも、反応を見せない。寧ろそれを疎ましくさえ思っているようだ。

「高山のことが心配なのは分かるけど、ちゃんとメシは食べなアカンて。このままやったら彩ちゃんまで倒れてまうから」

 伊藤がそこまで言ったところで、彩はようやく藤井の手から引っ手繰るようにカップケーキを取った。藤井はしばらく呆気にとられていたが慌ててスプーンを袋から取り出し彩に手渡した。

 こんなに、味のないカップケーキを食べたことがあるだろうか。

 彩は全く味の感じられないカップケーキを食べていた。伊藤たちもおにぎりやサンドイッチを取りだし食していた。

 しばらく咀嚼の音だけがそこを支配していたが扉をノックする音が響いた途端、伊藤はおにぎりが口に入ったまま、はいと返事をする。おそらく扉の前に立っているのは看護師だろうと思いつつ。

 それ故に、次に姿を現した人物に動揺を隠せなかった。

「あ、梓?」

 伊藤は大声を出した時、おにぎりを喉に詰まらせそうになってしまった(藤井が慌ててお茶を差し出したことにより事態は治まったが)。しかし梓と呼ばれたその人物は至って冷静で、伊藤の大声に全く怯むでもなく普通に部屋へと入ってきた。

「梓、どうしてここに?」

「どうしてって、お父さんのお見舞いに」

 慌てた表情の伊藤の一言にも、セミロングの黒髪、頬がこけた小さな顔、肌は病的な白さを湛える、細く小柄な体の女性、梓は冷静に答えるだけだった。

「お父さんの部屋へ行く途中に伊藤くんと藤井くんを見かけたから後を追ってきてん」

 そうかと返事をすると伊藤はその体を震わせながらもおにぎりを飲み込んだ。必要もないのに何故か動揺している彼に不審を抱き、梓はじっと見つめた。見つめられた伊藤は後ろめたいこともないのに戦いてしまった。何故か藤井までも冷汗を垂らす。そんな彼らに意外な形で救世主は現れた。

 梓はじっと見られていることに気付き今度はそちらへと視線をやった。彼女への視線の持ち主、彩は何か未知の物と遭遇したかのような表情も見せている。

「あ、ゴメンな。急に入ってきて挨拶も無しに」

 梓は彩に体を向け、話す体勢に入った。

「私は小野梓。大阪市内の企業に勤めるOLで、伊藤くんの彼女やねん。あなたは確か、彩ちゃん? 藤崎彩ちゃんやったね? 初めまして、伊藤くんからよう話は聞いてるで」

 よろしくと手を差し出すも、彩は梓をじっと見つめるだけだった。梓は感じ悪いという印象を抱きながらも、こういう変わった子でもあったねとまた同時に納得する。

 一通りの自己紹介も終え手持ち無沙汰になった梓は、今度は眠れる高山に目を向けた。彩との約束を守った伊藤が話さなかったものだから、梓は今初めてこの事実を知ることとなる。

 とても、綺麗で穏やかな顔で眠っている。梓も不謹慎だと思いながらも、そんな感想を抱かずにはいられなくなった。

 ――まるで、あの人に似ている。

「……頑張ろうね!」

 梓は彩の手を強引に取り、そう言っていた。それを伊藤も藤井もサンドイッチとおにぎりをそれぞれ口にしながら見ていた。彩はじっと見つめる姿勢こそ変わらなかったものの、瞳が驚きの色に染まりつつある。

「高山くんはきっと助かる。きっと目を覚まして彩ちゃんにまた笑いかけてくれるから、だから、頑張ろうね!」

 驚きながらも、彩は首を縦に振っていた。この状況下で一番驚いていたのは彩ではない。伊藤でも藤井でもない。

 発言したはずの、梓自身だった。

 梓は彩から離した手をしばらくじっと見つめたが、突然何かを振り切り伊藤を見た。

「あ……私、お父さんのところに行ってくるね。それから伊藤くん、後でお茶でも……」

 伊藤はサンドイッチを飲み込み、うなずいた。

 

 

 彩たちの元へとやってきた女性、小野梓。彼女は自己紹介でも述べた通り、大阪市内の某企業に勤める二十八歳のOLである。趣味用のお金を稼ぐ為のイベントスタッフの短期バイトで自らが犯してしまった失敗を同い年の伊藤が庇ったのがきっかけで二人は惹かれ合い、現在結婚を前提とした交際をしている(しっかりした性格の伊藤は梓の父親にも気に入られている)。

 梓には、交通事故に遭った時に障害が残り寝たきりの生活を余儀なくされてしまった父親がいる。彼女には看護師になりたいという夢があったが生活費を稼ぐ為に断念し、高校は定時制に通いつつバイト、卒業後は大阪市内にある副業可の某企業に勤めるようになった。

 事故が起こった中学三年の春以来、今でも母親と交代でほぼ毎日病父の見舞いに来ている。

 今日はそこで伊藤と藤井の姿を見かけて後を追ってきた、というわけである。

 

 病院の地下にある、栄養のバランスが整っていてメニューも豊富で意外に美味と評判の食堂。そこで一人、梓は物思いに耽っていた。

 頼んだコーヒーの湯気も全く目に入っていない。量も全く減っていない。

「梓」

 約束通り伊藤が来たというのに、それにも気付かなかった。

「梓、おい、梓!」

 耳元で強く名前を呼ばれ、更に肩も揺すられ、ようやく彼女は気付くことができた。それでも、ああと生返事でしか応えることができなかったが。

 伊藤は溜息を吐きながら向かいの席に座り、コーヒーを注文した。それが来る間、目の前の物思いをじっと見るだけだったが遂に痺れを切らし、口を開いた。

「梓、どないしてん?」

 またも梓は応えず、ふうと溜息を吐くばかりだったが、伊藤に右肩を叩かれてようやく気付く。

「伊藤くん……」

 伊藤はウエイターが運んできたコーヒーに一口つけ、聞く体勢にいつも以上に力を入れた。物思いの理由、垂れ下がった眉、僅かに潤んでいる瞳、溜息、それらが気になって。

「実はね、昨日ね、昨日もいつものように、お父さんのお見舞いに行ったんだ」

 伊藤はもうコーヒーに口をつけず、相槌を打つだけだった。

 二杯のコーヒーとそれが出す湯気は、ただただ一組のカップルを傍観するばかりだった。

「それで、お父さんの部屋の前まで、行ったんだけど、そこで……その……。先生とお父さんが話しているのが、その、聞こえ……ちゃったんだ。そこで、そこで、その、お父さんが……」

 それまでたどたどしくも話を進めることができた梓だが、徐々に口を機械的に開閉させ声も小さくなり、遂には震えて俯くだけになってしまった。

 伊藤は不安だった。梓が、いつも自分には笑顔を見せてくれた、芯の強い梓が、何かに怯えて震えている。しかし、結論を急ぐ真似はしなかった。

 俯きながらも梓は必死に事実を紡ぎ出そうとしているのだから。伊藤は決して唇の、特にある動きを見逃さなかった。当の本人が一番怖くて口に出したくなかったであろう、三文字の単語を。

「安楽死――」

 

 それは、昨日もいつものように梓は父親の見舞いに行った時のことだった。

 いつものように、普通に父親の部屋へ行ったのだが何故か入ることができなかった。

 中ではいつものように検診に来た医者を相手に、父親がある相談を持ちかけていた。

 そう、その相談こそ『安楽死』だった。自分には障害が残っている上に、もう治る見込みもないから。家族に今まで迷惑をかけてしまっているから。それならいっそのこと、と。

 これが、梓が言わんとしていることを整理したものである。

 

 梓は俯いたまま、震えていた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。

 伊藤は後悔した。彼女の物思いの理由を興味本意だけで聞いてしまったことを。そして、全てを理解した。

 あの時、彩に投げかけた一言は彼女だけに、ではなかった。自分自身にも言い聞かせていた、そして諦めたくなかった。その思いが梓をあのような行動に移したのだ、と。

「……し」

 震えながらも、彼女は口を動かし小さな声を出している。

「私……どうしたらいいの? お父さん……」

 伊藤はもう何も言わなかった。否、言えなかった。どんな言葉でも、今の彼女には届かない、そして軽いものにしかならない。そんな気がして。

 まだ、コーヒーは湯気を出し続けている。

 

 

 あれから数時間後、あの気まずい空間から脱け出すことに成功した伊藤は一人、病院の廊下を歩いていた。その足が向かうのは高山の部屋ではない。

 高山の部屋とは違う階層でエレベーターを止め、他にわき目を振ることもなく目標へ向かってただ黙って歩くのみだった。

 そして、ある個室の扉の前で足を止めた。しばらく右手の拳をじっと見つめていたが、腹を括ってノックする。中から男性の、枯れた低い声の返事を確認し扉を開く。

 僅かに顔を覗かせる白が目立つ黒い髪、力なく垂れ下がる眉、穏やかな表情。薄い黄色のパジャマの袖から顔を覗かせる、枯れ木の枝と見間違うほどに細い腕。血管の浮き出た、物を持つほどの握力も残されていない小さな手。それらの持ち主である男性は、軽く会釈して伊藤を迎え入れる。

「今日はキミも来てくれるとは思わんかった、伊藤くん」

「おじさん……」

 僅かな力を使って体を起こそうとする男性を、無理しないでくださいと伊藤は制し寝かせた。

 男性は伊藤のおじではなく、食堂で話題に挙がった梓の父親である。

「梓はどこへ行ってん? 伊藤くんが来てくれたというのに」

「梓は……」

 梓は来ません。伊藤はその言葉を引っ込めた。伊藤が今ここに来ていることを、梓は知らない。

 あの後伊藤は「適当な用事を作って梓を病院の外へ出してくれ。そしてなるべく長く引き止めて欲しい」と藤井に頼み込んだ。その為梓は藤井と一緒に病院から少し離れた喫茶店にいる。

 どうしても、梓の父親と二人だけで話をしたかった。事の真意を確かめる為に。

 伊藤は丸椅子にどっかと腰掛けた。いつものどっしりとした、冷静な自分を演じつつ。本人は演じているつもりでも、やはり体は正直だった。体から吹き出る冷汗は、拭えない。

 できない。全てを問い質すつもりだったのに。いざ本人を前にすると、やはりできない。

 ベッドの上から見せてくれている穏やかな表情が、まるで抜群の切れ味を誇る刃物のような威圧感を秘めていて。伊藤はただ黙って丸椅子に腰掛けるしかなかった。

 彼女の父親に結婚の承諾を貰いに行く時も、きっとこんな感じなのだろうか。

「ところで、伊藤くん」

 しばらく沈黙が続いたが、先に梓の父親が口を開いた。

「梓のことなんやけど――」

 苦しい。穏やかな表情と父親が出した娘の名が二刀流となって。

「梓のことを、頼みます。あの子だけは、幸せになって欲しい……」

 膝の上に置いた手は、ぎゅっと堅く握り締められていた。

「――ほんなら、なんで、なんで……」

 鼓動が速い、震えが止まらない、彼女の笑顔が、浮かんでは消えていく。

「なんで、娘の為に生きようとか、娘の考えを理解しよう、とか考えないんですか!」

 拳は汗でじんわりとしている。目は血走り、声も天地を揺るがすほど大きい。

「梓にとっての幸せはおじさん、あんたも含めてみんな一緒に生きることなんですよ!」

 梓の父親は彼に応えるでもなく、ただ黙って見るだけだった。

「梓は、今悩んでいます。あんたが安楽死を考えていることに」

 伊藤の心に、片隅に追いやっていた男性の影が甦る。

「俺にとって、あんたら親子は憧れやったのに。俺も、親父たちと正面から向き合おうって、そんな気持ちになれたのに」

 江戸時代より続く大阪の名家の長男で、権威のある道場で師範代として活躍し、一流の柔道家と謳われていた、父親。自分を名家の後継ぎとしか見てくれなかった、そして自分の意見を全く聞き入れようともしてくれない勝手で頑固だった父親。

 そんな父親に、伊藤は表向きでは従いながらも内心では嫌悪し、避けていた。そして、同じく厳格な母親と典型的な日本男子の祖父にも。

 だからこそ、障害が残り寝たきりになってしまった父親の看病をする梓は、しっかりと向き合えている二人は、尊敬と憧れの存在となっていたのに。

「娘を苦しめて、何が父親や! 俺の親父と大差ない! あんたは勝手過ぎる! 最低や!」

「お父さんを悪く言わんとって!」

 女性の高い大声と同時に、バン! と乱暴に扉が開かれる。そちらに目をやった伊藤は、まず息を呑み次に自分の目を疑った。――何故ここに?

「あ、梓?」

「伊藤くん、藤井くんから全部聞いたで。これどういうこと?」

 怒りが頂点に達している梓の後に、申し訳なさそうにしている藤井が控えている。そこから全てを察した。――藤井め。

「勝手なことせんとって!」

 鬼子母神を模写したも同然の形相の梓に詰め寄られ、伊藤はひとまず引き下がるしかなかった。梓はフンと荒く息を吐き、くしゃと髪を触りながら部屋へと足を入れる(藤井は部屋の隅に追いやられた伊藤がこっそりと帰した)。

「梓……」

 梓は自分を呼ぶ弱々しい声、とても美しい穏やかな顔をしている父親へと目をやった。

「梓、聞きなさい」

 一寸前、そして今置かれている状況にふて腐れながらも、梓は聞く体勢に入った。不機嫌な上にこれから親に叱られようとしている子供の如く。

「梓、お父さんは今体の障害だけではなく、心臓も患ってる」

 知らなかった。えっ、と梓は息を呑んだ。もう、ふて腐れた表情もなく、ただ金魚の如く口をぱくぱくさせるだけだった。

「三歳の時や。心臓の病気にかかって手術をしてん。助かる確率はゼロって言われてたけど、その時は奇跡的に助かった」

 父親は目を閉じ、自分の歩いてきた道を思い返していた。

「それから数年経ったあの日、事故で瀕死の重傷を負ったのに手術でまたも奇跡的に助かった。けど、それが心臓に負担をかけてもうて再発――」

 イレギュラー。そんな二人を、伊藤は部屋の隅で見ているしかなかった。

「最近は心臓の発作にも悩まされてる。夜な夜な脈が速くなって、何度も目が覚めてもうて、汗が、激痛が止まらん。――『死ぬ』、何度覚悟したことか」

 梓は、震えている。

「こうして話している今も、怯えてる。またいつ発作が起こるのかって。食事、沐浴、下の世話、病床の世話、着替え。唯ですら梓たちに迷惑をかけているというのに、発作まで起こしてしまったらと考えると。それならいっそのこと――。ごめんな梓、お前に不幸な道を歩ませてもうて。看護師になりたいって夢があったのに、それまでも犠牲にさせてもうて」

「……て」

 伊藤は見ていた。数分前までの自分を模写したも同然の梓を。

「止めて!」

 梓は頭を抱え込み、くしゃくしゃと髪を掻き毟った。

「私、迷惑やなんて思ってない! 不幸やなんて一度も思ったことない!」

 上げた目には涙が溢れる。気持ちも、何もかもが止められなくなっていく。

「お父さん、生きてや! お父さんがいなくなったらお母さんも、私もどうなるの?」

 そこにいる梓は、梓であって梓ではない。それが、部屋の二人が抱いた感想だった。

「お父さん、生きて! 私の花嫁姿を見て! それまで絶対に死んだらアカンからね! お父さんに花嫁姿見てもらうの、私の夢やったんやから! 絶対に死んだら嫌や!」

 自分の思いをヒステリックに言い放った梓は、扉のそばに立つ伊藤を突き飛ばし部屋を勢い良く飛び出してしまった。どこかへと駆け出す音だけが二人に聞こえる。

 伊藤と、愛しい人の父親。残された二人の間にあるのは、重苦しい雰囲気だけだった。

 しばらく心を失った人形のように固まっていたが、ようやく正気を取り戻せた伊藤は梓の父親を見る。出ていく娘を追いかけることもできなかった父親を。

「驚いてる。こんなん初めてやから。梓にあんなに強く言われたんも、梓が僕に我侭を言うたのも」

 娘の後を追おうとしていたのに。それすらも、もうできない。

「おじさん……」

 娘の願いを叶えてやることは、もう不可能に近いと自覚ができていた。

「あの子は昔から我慢強い子やったから。だからこそ、だからこそと思ったんやけどな」

 その言葉を最後に、梓の父親は天を仰いだままになった。

 しばらく伊藤は梓の父親と外を交互に見て迷うばかりだったが、ある決心を胸に外へと出た。彼女を追う為に。模索した結果出てきた『自分にしかできないこと』、それを成し遂げる為に。伊藤は他の患者の迷惑にならない程度に走って梓を探し続けた。

 患者も医者も誰も滅多に来ることのない袋小路。そこで一人すすり泣く声を聞いた。聞き覚えのある、しかし聞いたことのなかった、愛しい人のすすり泣く声を。

「梓……」

 伊藤はそれに徐に寄り、肩を後から抱こうとしたがその手を払われてしまった。思えばこれも初めてだった。今の伊藤はただ、梓のすすり泣く後ろ姿を黙って見ることしか許されなかった。

「どうして、どうして私ばっかり。どうして私ばっかり不幸な目に遭わないといけないの?」

 彼女は弱々しく、震えた声で吐き出した。今の自分の、心の片隅に追いやっていた思い。

 梓は決して今の自分に課せられた運命を不幸だとは思っていなかった。伊藤はそこにも惹かれた。それなのに。

「梓」

 まだ泣いている梓の耳に、伊藤の力強い声が聞こえてくる。

「梓の夢、親父さんの思い、叶えてやろうや」

 親父たちに命令されるままに柔道に打ち込んでいた時も、そして梓という愛しい女性と出会えてからも、ずっと思っていた。もしも、もしも自分が周りの人間全員を守れるほどの力があったなら。

「梓も、親父さんも、みんな俺が守る。大丈夫、綺麗事には絶対せえへん。誓う」

 だがそれは願うだけのものではなく、自ら手を伸ばさねば手に入らないと、そして何かを犠牲にしなければとたった今気付いた。

 伊藤は再び徐に梓の肩を抱いた。もう、その手を振り払わない。もう、涙は流していない。