それから一週間ほど経った七月の、うだるような暑さの日曜日。

 今日は仕事の打ち合わせの為、高山は事務所に来ていた。彩もまたバイトであったものの立派なスタッフとして、ここに召集されていた。

「今日、仕事が終わったらどっか喫茶店にでも行かへん? 晩飯も兼ねて」

「いいですね。それなら駅前にできたっていうカフェにしません? そこのチョコタルトはオススメだって森下さんに聞いたから」

 はぁ、森下に、ね。苦い顔を作りつつ高山はうなずいた。

 なんだろう。甘いものについて森下と語り合う時の彩の顔は一段と輝いているような気がする。

 自分が彩の料理を食べている時はこうもいかんのに。

 もしかしたら彩は自分より、森下の方が話も合うのかも。森下と付き合うた方がええのかも。

 後輩に嫉妬心を抱くなんて。そして、大好きな彼女を信じてあげられへんなんて。

 何とも滑稽で、フッと自嘲した。

 訳も分からず、自分をキョトンと見つめる彩をよそに高山は会議室の扉を開いた。雑誌の編集者やカメラマン、その他ホープのスタッフたちがいるはずの。

「海――……」

 会議室へ足を踏み入れた途端、彼は自分の名を呼ばれた気がして顔をそちらへ向ける。

 ――何で、ここに?

 刃先鋭き太い矢で自らの心臓を射抜かれたような、痛みや苦しみ。

 信じられへん。何故ここに? 何で、ここであんなモンに対面する羽目になってまうねん。

 痛み、苦しみ、疑問、嫌悪――様々な感情のうねりが、再び彼を襲う。

 今度は抑えこむ間も与えず、それは彼に押し寄せた。

「海、久しぶりやね……」

 ――今まで避けてきたのに。拘わりたくないって思っていたのに。

 なんだろう。思い出すだけで体が震える。

「あ、あなたどっかで見たことがある!」

 それまで後に控えていた、彩が不意に大声を出した。高山の目の前にいる、そして高山の名を呼んだその女性を見て。

「どこだったかな? テレビだったような気がするんですけど……」

 高山には声は届いていない。女性は高山と共に彩を見ている。他の人間たちは、ある者は眉をしかめまたある者は顔を引き攣らせた。

「藤崎さん、この方は映画評論家の高山文さんよ!」

 一番近くにいた女性スタッフが冷汗を掻きつつ彩を止めようとする。

「そうだ思い出した。先週見たワイドショーだ。あれって『あや』って読むんだ。私てっきり『ふみ』って読むもんだと……」

 しかし彩は至ってマイペースだった。女性スタッフはそんな彼女に呆れるより他なく、大きく溜息をつくしかなかった。

 そんなやりとりは全く別の次元で行われていることであるかのように、高山は全く関心を示さなかった。否、関心を抱くことができなかった。今目の前にある真実以外を受け入れられるほどの許容量が残されていなかった。

 しばらく動揺に震えていたが、次に空元気で自分を奮い立たせた。それを誰が見ても分かるように、肩が、震える。

「……帰れ」

「海、お母さんのこと忘れてもうたん? それとも……」

 震えて放たれた高山の一言。それを女性は全く受け入れようとせず自分の都合だけで話を進めた。

 怒りや悲しみ。様々な感情のうねりはもう、誰にも止められない。自分自身でも。

「帰れ言うてるやろ! ここは部外者立入禁止やで!」

 そこにいた者、全員の表情が一気に凍り付く。

 高山の強張った顔、罵声。それらを全く見たことがなかった。四年以上彼と仕事をしてきたホープのスタッフはもちろん、素の高山を知っている彩も。

 信じられない。信じたくない。なんで?

 全員が途惑っていた次の瞬間には、高山はその女性に有無を言わせず腕をぐっと掴み、この部屋から乱暴に追い出そうとしていた。しかし女性も負けまいと踏ん張り、高山の目をしっかりと見定めて震える唇を開いた。

「海、あなたも知ってるやろ? お父さんが倒れたのを」

 もちろん知ってる。ニュースを見てあんなに胸糞悪い思いしたんは初めてやしな。

 高山はぐっと唇を噛んでその言葉を引っ込めた。

 

 それは、一週間ほど前に朝のニュース番組を見た時にまで溯る。

 ある日、何の前触れもなく脳の異変が京都の政治家を襲った。それは脳卒中と診断され更に多忙さ故に発見も治療も遅れてしまい、現在大阪市内の病院にて生死の境目をさ迷っている状態にある。と現段階では報道されている。

 その話題が流れている間彼は日本中の誰よりも、ニュースに釘付けになっていたと言える。そう、その政治家こそ、家出して以来全く連絡も取っていない父親だったから。

 

「お願い、お父さんに会って。お父さんな、うわ言のようにあなたの名前を呼んでてん」

 自分は誰よりも父親を心配しているのかもしれへん――けど。

 ぐっと噛んだ唇から零れる赤を、飲み込む。冷たい鉄の味がした。

 他にも言いたいことがある。それを堪えて睨んだ、自分の母親に当たる女性を。

「あなたにどうしてもそれを言いたくて、あなたの今を突き止めたくて、探偵まで雇ったんやで」

 探偵? それじゃあ、今まで自分をつけ回していた人物は――。

「最低やな、あんた――」

 彩は見ていた。彼が、高山が震えているのを。

 ――あの時と同じかもしれない。

「帰れ。ここから出てけ。二度と俺の前に姿を現すな」

 抵抗も虚しく、遂に涙目の母親は追い出されてしまった。その時、彼女は見ていた。

 息子の目もまた、涙に濡れていたことを。そして、頬に一筋の涙が伝っていたのを。

 一枚の壁の如く堅く閉まった扉を、高山は全員に背を向けてひたすらに見ていた。否、全員へと向くことができなかった。なんだか、悔しくて、悲しくて、どうしようもなくて。

 重い沈黙しかない気まずい雰囲気の中、一言を投じるという勇気ある行動に出た者が一人。

「高山さん」

 それは、高山の一番近くにいた彩だった。

「お父さんに会ってあげて」

 彩は高山の背中だけを見て言った。伝わっているのかいないのかなんて分からない。けど、それを誰かが言わなければならないような気がして。

 震えは止まらない。全てが、全てに取り残された気がして。

「あの人、お母さんって人泣いてた。それに、お父さんって人も高山さんのことを……」

「……煩い」

 その時、震えは最高潮に達した。

「煩い!」

 金髪の青年の、世界を揺るがしてしまうほどの叫び声に、スタッフも、カメラマンも、編集者も、動けなくなってしまった。

 それでも、彼の為に正気を保っていた人物が一人だけいる。

「お前に俺の、俺らの何が分かんねん! あいつは、あのクソ親父は最低の男なんやで! あのクソ親父のせいで、俺も、あいつも……」

 分からない。分からない。

 今の自分という人形が腹話術師によって操作されている。高山はそんな感覚に襲われていた。

「あんなクソ親父、とっととくたばればええねん。ざまあみろって感じや……」

「酷い! そんなの酷すぎる!」

 たった一人彼のことを本気で想う彩は彼に反論し、睨んだ。

「お父さんのことをそんな風に言うなんて、私……今の高山さん、嫌いです」

「嫌いで結構」

 高山もまた、彩を睨んだ。しかし彩も負けていない。二つの想いの交錯が続く。

 本当は、睨みたくて睨んでいるわけではなかった。それなのに。

 ――どうして分かってくれない。

 高山はチッと舌打ちをし、扉を開き何処かへと走り去ってしまった。あまりの突然の出来事に彩はアッと息を呑んだがすぐに彼の後を追った。たった一人で。

 すぐに後を追ったはずなのに、既に部屋の外には高山の姿はなかった。後を追おうにも高山は足が早いし事務所も広く、追いつくことはもはや不可能か。

 彩は絶望し、がっくりと肩を落とした。その彼女に忍び寄る影が一つ。

「あの……」

 優しくもどこか悲壮感の漂う声に、彩は顔を上げた。

 そこには一寸前に実の息子に追い出された女性、もとい文がいた。もう涙こそなかったが、眉も垂れ下がり肩も寂しげに、大きすぎる動揺と悲しみが強く現れていて、辛く痛々しい。

「さっきの……」

「改めまして、映画評論家の高山文と申します」

「あの、さっきは失礼を致しました。私ったらあんな、状況も考えずに大声で叫んでしまって」

「いえ……」

 それでも凛とした自分を演じ続ける文に、彩はますます痛々しさを感じずにはいられなかった。

 高山さんを見かけませんでしたか? 彩はその言葉を引っ込めた。

 なんだか聞いてはいけないような気がして。仮に彼女が高山の行方を知っていたとしても。ここにいるということは知らないことに間違いはないのだが。

 その通路に誰も来る様子もなく、二人残されとにかく気まずい。

「あの……」

 それを打ち破らんと意識していたのかは定かではないが、文が口を開いた。

「もしよろしければ、お茶でも飲みながらゆっくりとお話をと思ったんですけど」

 仕事があるんですよね? と文は続けた。そこでやっと彩は今の状況を思い返す。

 今から中へと自分が入っても、気まずさだけを持ち込む結果になり打ち合わせも捗らないだろう。ましてや、自分はただのバイトでしかない。自分がいなくても成立するのではないか。

「いえ、お受けします。私でよければ」

 彩の言葉に力ない笑顔で、文も応えた。

 事務所近くの喫茶店へと移動する間、彩は見ていた。彼に似ている、文の寂しい横顔を。

 

 

 事務所から歩いて数分もない場所にある喫茶店。二人はそこにいる。

 文はアイスコーヒーを、彩はアイスカフェオレを、それぞれ注文した。

 それからしばらくして注文の品が運ばれてきた。

 アイスカフェオレに口をつけつつ、彩は見ていた。文の立ち振る舞いを。

 コーヒー一つ飲むにしても上品で、専業主婦の母とは天と地ほどの差がある。

 一人の子を生し育てた母親だと言われて、誰が納得するだろうか。寧ろ政治家夫人でワイドショーに引っ張りだこの映画評論家と紹介されたほうがしっくりくる。

「? 何か?」

「え? あ、いえ……」

 彩は咄嗟に顔を真っ赤にし、アイスカフェオレを飲み干す勢いでストローを吸った。下品かなとますます顔を赤らめ、遂には俯かせてしまった。

 そんな彩を見て、文はここへ来て初めてクスクスと笑った。

「面白い子なんですね、ええと……」

「あ、すいません。私、藤崎彩と申します。大学生です。すいません、自己紹介が遅れてしまって」

 何から何まで失礼を。凛とさせて自己紹介をしたのに再び顔を真っ赤にしてしまった。その彼女に文はリラックスして頂戴と言わんばかりに穏やかな表情で口を開いた。

「私と同じ名前なんですね。『あや』って」

「はい、色彩の『彩』って字を書いて。『紅葉が彩り溢れて綺麗な道を歩きながら考えたんだよ』って父が」

 そう、と一つ洩らし文はアイスコーヒーに口をつけた。

 そこから話題を広げられればと思ったのも束の間、二人とも黙り込んでしまった。

 しばらく、ストローを吸う音や他の客の話し声だけが彩の、文の聴覚を刺激するのみだった。

 気まずい。まるで、二人だけを別の風景から切り取ってきたような。

「あの……」

 その違和感をなくそうと意識したのかは謎だが、文がストローから口を離した。

「彩さんは、海とはどんな関係で……」

「え? あ、海くん、いえ高山さんとはその、好きな人というか、大好きな人で……って殆ど同じか。つまり、その……」

「親しい、お友達なんですね」

 言葉に詰まった彩は、うんとうなずくしかなかった。

「もしかしたら、あなたの方が海のことをよく知っているし、それに何より」

 うなずく姿勢のまま、彩は頭を動かさなかった。

「何より、あの子を愛しているんじゃないのかって。それに、海もきっとあなたのことを愛しているんじゃないのかって」

 『愛する』にも様々な意味がある。彩は何かを想像すると、顔を一寸前とは比にもならないほどの濃い赤へと変えていく。どうやら、彩は今まで触れたことのない、あっても第三者として見るだけだった『男女の愛』を想像してしまったようだ。

「私は、あの子を愛していた。愛していたんやけどね。所詮はつもりでしかないんかって、あの時、そして今日思い知らされた気がする」

 そこまで聞いて、彩の記憶が巻き戻っていく(もう顔は赤らめていない)。

 強張った顔。罵声。実の母親への乱暴な振る舞い。周りを凍り付かせる大声。震える彼。睨む彼。睨む自分。舌打ち。出ていった彼。

 それらが、ビデオの逆再生の如く甦っては消えていく。

「あの子は、私も、あの人も、もう愛してはいないんやね。きっと……いいえ、絶対に」

 更に、文の無意識的に放たれた関西弁も相成って逆再生はある記憶までも呼び覚ました。

「いいえ」

 さっき言ったことは、決して本心ではない。

「高山さん……あなたの息子さんは、あなたたちを愛していると思います。だって、あなたの名前をしっかりと覚えていたんですから」

 自分の言動に自信をたっぷりと込め、ここへ来て今度は初めて彩が笑った。それに応えるように、文も笑う。

 

 この後会計を済ませた二人はそのまま別れた。スケジュールを空けていた文は愛する夫の看病の為病院へ、彩はそのまま家へと。