彩の父親に交際を認められてからほぼ一ヶ月が経ったある日。高山と彩の二人は、普通に喫茶店でお茶を飲み、普通にウインドウショッピングを楽しみ、普通にデートをしていた。そのはずだったのに。

「高山さん? どうしたんですか?」

 街を歩く間、高山はしきりに背後を気にしていた。彩は普通に歩いていたのに。

「うん、ちょっとな」

 曖昧な返事は彩にもそれを伝染させてしまう。遂には彩までも背後を気にするようになった。

 歩みがぎこちなくなり足がもつれてよろけた。しかし高山が助けに入ったことにより、その体を地に叩きつけられずに済んだが。

「大丈夫?」

「ありがとう、ごめんなさい」

 このままやったらアカン。さっきは曖昧な返事で彩を巻き込むまいと考えていたが、今の状況によりそれを撤回することに決めた。

 ますます彼女を危険に晒してしまう。大袈裟かもしれないが、そんな気がして。

「実は、誰かにつけられてるような気がすんねん。それも今日だけや無しに数日前からずっと」

 高山は特に回りに注意して彩に耳打ちをした。そうでもしないと、もしも自分の言った『後からつけてくる人物』が敵対意識を持っていたなら危険を招く結果になり兼ねない。

「誰かって、ファンの女の子じゃないんですか?」

 それにも拘わらず彩の対応は暢気そのものと言えた。そんな彼女に焦りを感じながらも冷静を、そしていつもの自分を演じ続けた。

「いや、そんなもんちゃう。それとは確実に何かがちゃう。それに、ファンの子やったら後をつけたりせずに話しかけてくるやろ」

「もしかしたら、その女の子はシャイなのかもしれませんね」

 違う、そうじゃなくて。それを言いたいもどかしさを、金髪を掻いて抑える。

 しばらくその場から動かず溜息を吐き貧乏揺すりを繰り返していた。それを彩は首を傾げて高山を見るばかりだった。しかし。

「……よし」

 不意に、高山は彩の手を握った。それはさっきまでの比にもならないほど力強く、突然の出来事に彩も戸惑うしかなかった。

「撒いてまおう!」

 高山は彩の手を引っ張る形で走り出した。戸惑いながらも彩はそれについていく。

 彩との楽しい時間を壊されてたまるか。

 高山は走った。必死に走った。学生時代や休日に今もこなすスポーツでも、ここまでスピードが出るか分からないほどに。

 彩もそれについて行くのが精一杯だった。周りの風景の変化にもついていけず、遂には引っ張られているだけも同然の状態へと変わっていく。

 でも、高山さんと離れたくない。

 引っ張られているだけでも必死に踵を踏み込み、はっはっと息継ぎも忘れなかった。

 

 

 どれだけ走ったのか。それも分からなくなった頃。高山はようやくその足を止めた。

 周りの風景はショップが並ぶ道から、静かな公園へと変わる。

 流石に小学生時代のサッカーや高校時代にもボクシングなど、スポーツの経験豊富で体力にも自信のある高山でも今のは相当きつかったらしい。息切れを起こし、衣服も汗で濡れている。

「はあ、はあ、はあ……大丈夫? 彩ちゃん。ゴメンな、急に走り出したりしてもうて」

 体育も苦手だった女性の彩はその比にもならない。全身汗びっしょりで着ていたシャツも(下着が見える寸前までだったが)透けてしまった。

 更に息切れも酷く胸を抑えて咳き込みまで起こし、軽く嘔吐してしまった。

 それでも何か言いたげに口を動かすが、言葉が言葉として出てきてくれない。

「ホンマにゴメンな。どこか涼しいところで休もうか」

 高山は彩を思いやった。自分がこんな目に遭わせてしまったという負い目もあるが。息切れも治まらぬまま、彩は首を縦に振った。

 

 それから数分間。高山が見つけた木陰のベンチに二人、腰掛けていた。

 息切れが大分治まってきたらしく、彩はもう、胸も抑えず咳き込まない。

「ご、ごめ……ごめんなさ……い……」

 それでも若干の息苦しさが残っているみたいで、呂律が回らない。言いたいことはたくさんあるのに。

 彩を思いやり、高山はええから気にすんなと頭を撫でた。

「でも、謎の人物を撒けたみたいでホンマによかったわ」

 彩はうんと首を縦に振った。さっきの大きな手が特効薬になったらしく、もう息苦しさはない。

 高山は特に安心し、ほっと息を吐いた。そして、ざわめく木を見つめながら考えていた。

 さっき自分をつけてきた人物は誰なんやろか。

 俺に、俺らに敵対意識を持っているんやろか。

 彩にとって危険な人物なのか。

 それなら、彩は絶対に守りとおさなければ。

 彼女への想いが一杯になり、自分のことまで頭が回らなかった。

 

 

 それから、高山も彩も普通に日常を過ごしていた。

 誰かに尾行されている、という不可解で不気味極まりない事実を除けば。

 いっそのこと、その人物に詰め寄り全てを問い詰めてしまおうか。

 高山は彩とのデート中はもちろん、仕事中や森下や藤井との付き合いの最中も常々考えていた。

 しかし、それこそ相手の思う壷になり兼ねないし、相手もまたしらばっくれるだけだろう。

 そして――自分が一番恐れている結果にならないとも限らない。

 もどかしさを覚えて震えたこともあったが、これが得策なのだと洗脳の如く自分に言い聞かせていた。

 そして今日も。彼はいつものように目覚めた。

 今日は平日で彩に頼るわけにもいかない。そこで今日は以前彩に教わった調理方法で作った目玉焼きやトーストの簡易朝食で済ませる。

 美味くできたと満足な出来であったらしく、ご機嫌なまま食卓についた。

 バターを塗ったトーストを頬張りつつ、テレビをつける。無音の食卓に耐えられないのとニュースを知ることでナンパやトークのネタになるかもという、寂しがり屋でお調子者な盛り上げ役でもある彼らしい理由で。

 日本人スポーツ選手の海外での活躍、芸能人の熱愛、自然災害による被害、残酷極まりない殺人事件。微笑ましい事件も見るのも痛ましい事件も平等に流していく。

 目玉焼きを食べ終えたところで、とある京都の政治家に関する事件が彼の視覚と聴覚を刺激する。

 ――何やねん。

 ざまあみろと腹の底から大声を出して言いたいような、嘲り。

 全ての臓器を直に握りつぶされているような、痛みと苦しみ。

 へえそう、大変やったなと適当な傍観を決め込みたい、薄情さ。

 自分の中の一部が消え失せてぽっかり穴が開いたような、寂しさ。

 様々な感情のうねり。残りのトーストを一気に頬張りテレビを消すことで抑え込む。

 そして身だしなみを整え、彼はいつものように仕事へと向かった。