梅雨真っ只中の六月。彩の提案が実行される土曜日。

 今日は高山が彩の部屋に泊まりに来ている。

 男性を泊まりで部屋に上げる、つまりは特別な意味合いが含まれていると考えるのが筋というもの。しかし彩にとってはそのままの意味でしかないらしい。

 何かを期待して上がった高山に対し、彩は至ってマイペースだった。それ故に高山はテーブルしかないリビングに一人残されることとなってしまった。

 あれこれ想像し悶々とする高山をよそに、彩は普通にシャワーを浴びていた。

 その高山に余計な刺激を与えるかのように、何かが玄関を叩く(彩のマンションには呼び鈴がない)音が聞こえてきた。

 ユニットバスの戸かシャワーの音に邪魔されてか、この部屋の持ち主である彩にはどうやら聞こえていないらしい。

 高山はしばらくユニットバスの戸と玄関を交互に見つめ迷っていたが、最後には玄関を開いていた。どうせマンションの管理人か何かだろうと高をくくりつつ。

 開いた扉の向こうに立っていたのは、ライトブラウンのスーツに身を包む太目の中年男性。眉をしかめたその中年男性は、黙って高山をじっと睨むのみだった。

 高山は混乱した。このマンションの管理人は中年の女性だと彩からも紹介されていた為に。それならこの中年男性は誰なのだろう。訪問販売ではないことなど、混乱しつつも判断はできた。

 誰なんですか、あんた? そう聞けばいいのは分かっている。

 しかし高山は震えて口を開くことはもちろんその中年男性から目を背けることもできなかった。中年男性は扉を開いたのが自分だと分かった途端に眉をしかめ出したのだから。

「ん? 何? 誰か来たんですか?」

 今の状況下でも全く暢気な彩が、白いパジャマに袖を通し濡れた黒髪をバスタオルで拭いつつ、ユニットバスから首を伸ばした。

 が、中年男性と目が会ったと同時に目を丸くし全身に緊張が走る。

「お、お父さん?」

 彩の口から開かれた単語に、高山は目を丸くせざるを得なかった。次に『お父さん』と呼ばれた中年男性と彩を交互に見る。

「お父さん? どうしてここに?」

「どうしてって、娘の様子を父親が見に来て何が悪い?」

 中年男性もとい父親は娘に有無を言わせる間もなく、部屋へとずかずかと上がり込んでいた。

「ちょ、ちょっと! お父さん! どうして来るなら連絡を……」

「それより、この男は何なんだ?」

 娘はまだいい。怒り心頭でも睨むでもなく普通に見ているのだから。問題は高山だ。

 確実に、睨まれてる。

 まだ震えて動けずにいたが、腹を括って口を開いた。

「は、初めまして、お父さん。お……やなくて僕の名前は高山海といいまして。職業は……」

「誰も自己紹介をしろとは言ってない。それに、僕はお前の父親でもない!」

 今にも掴みかかりそうになっている父親を、高山との間に彩が割って入って止める。

「お父さん、止めて!」

 興奮状態の父親を、彩はなんとか抑えこもうと必死になった。父親も娘には甘いらしく、とりあえずこの場を納めた。高山はホッと息を吐いた。

「と、とりあえず、中に入って。話はそれからでもいいでしょ? ね、お父さん?」

 高山を睨み続けながらも、父親は首を縦に振った。

 

 

 その部屋では誰も口を開こうとせず、まるで出口もなく密閉された空間のような重い空気が漂う。

 彩が出した飲み物のコップは、誰にも口をつけられることなく水滴を落とすばかりだった。

 彩はお盆を持ったまま俯き、高山は前を直視できず、父親は口を開こうともしない。

 でも、もう誰も睨んでいない。それだけがこの場の救いか。

「んー……あの」

 この気まずい空気の中で、勇気ある一歩を踏み出したのは彩だった。

「お母さん元気にしてる? お兄ちゃん家に帰ってきてる?」

 娘の言葉にも応えようとせず、どっしりと胡座をかく父親は二人を凝視するだけだった。

 息苦しい。それが、彩の抱いた今の父親の反応に対する感想。

 彩と高山は呼吸の仕方という、生物の常識と言えるものすら忘れそうになった。

「これは一体どういうことだ?」

 いきなり出された父親の声に、彩も高山もショックで心臓が止まりそうな感覚に陥った。

「嫁入り前の娘が男を部屋に上げるなんて。それも彩ちゃん、お前シャワーを浴びてたじゃないか」

 娘たちのことなど構うことなく、父親は続けた。

「この後どうするつもりだったんだ? まさか……」

 冷静に行くつもりだったのに。気がつけば父親はまた、高山を睨んでいた。

 自分を睨む視線がようやく高山に正気を取り戻させていた。しかし極上の威圧感によって蛇に睨まれた蛙の如くまたも動けなくなってしまう。

 弁明をしたいし、でも動けない、更にはどんな言葉も言い訳にしかならないような気がして。どうすることもできない。

「わ、私は、高山さんにいつも土日に食事を作ってあげてるだけなの。夕食だから泊まりで……」

 なんてことを。高山は半泣きの状態で彩を見た。それは火に油を注ぐ結果にしかならない、と。

「そんなことを聞いてるんじゃない。それに彩ちゃん、僕はこの男に聞いているんだ」

 案の定、父親の顔が地獄の閻魔大王を写したも同然に強張っていく。口調こそ冷静であるものの、その怒りは先程の比にもできないだろう。

「それなら、単刀直入に聞こうか。彩ちゃんのことをどう思っているんだ?」

 質問に答えたい。しかし、まだ呪縛は解けずにいた。

「まさか、彩ちゃんをいいように利用してるだけじゃあるまいね? 食事を作らせる為だけの。まあ、君のような格好のいい男なら女にも不自由しそうにないからな」

「お父さん!」

 彩の声が、高山を呪縛から解放した。

「お父さん酷い。私は、高山さんが大好きなの! それに、高山さんはいい人な……」

「だから僕はこの男に聞いていると言っているだろう」

 少し黙ってて。高山は先程の半泣き状態が嘘のように凛として彩を見た。

「彩ちゃん、少しの間でいいからこの男と二人だけで話をさせてくれないか?」

 俺からも頼む。高山もまた、彩を見る。父親に諭され、高山に見られ、彩はふて腐れながらも従うことに決めた。

「それじゃ、私近所のコンビニにでも行ってくるから」

 そう言い残した(普段着に着替えていた)彩がこの部屋から消えた。これで本当に二人きりだ。

 父親と、その娘が想いを寄せる相手。結婚の承諾を貰いに来た時、今の場を包む空気はそれに酷似している。

 しかし気まずい雰囲気は微塵にも感じさせない。高山が凛として相手を見ているから。

「それでは改めて話をしようか。ええと……」

「高山です。高山海です。職業はファッションモデルです」

「高山くん、娘を、彩ちゃんをどう思っているんだ?」

 睨んではいないものの、眼力も強く、鋭い。しかし高山も負けてはいない。

「娘さん……彩ちゃんは、優しくて、料理上手で、いつも笑顔で、でも天然なところがあって」

 相手を、凛として見つめていた。

「一緒にいると落ち着くんです。昔からこういう女性に巡り会えたらっていつも思っていました。俺は、彩ちゃん……彩のことが大好きです。真剣に想っています」

 その世界で一番真剣な一字一句を、父親は心にぐっと刻み込む。

 次に今までの閻魔の強張った顔が嘘のように優しい、慈悲深き神の如き笑顔へと変わっていく。

 娘にこれをそっくりそのまま遺伝したとも言える、優しい笑顔。

「もしここで『彩ちゃんしか見えていない』『彩ちゃんは世界で一番の、最高の女だ』とか上辺だけを並べていたら、僕はきっと君に殴りかかっていた」

 次に高山の手を堅く握り締めた。

「僕の娘を、彩ちゃんを、よろしくお願いします」

 承諾します。その言葉の代わりに、高山は父親の手を握り返した。

「ただいま」

 そこに、タイミングを合わせたかのように彩が戻ってきた。

 さっきとは打って変わった和気藹々とした空気に一瞬だけ途惑うも、次にはコンビニのビニール袋を弄っていた。

「お菓子、新作で美味しそうなのがあったから買ってきちゃった。食べるでしょ?」

 うんと二人の返事を聞いた彩は、お菓子をビニール袋から出して封を開ける。

 お菓子に舌鼓を打ちつつ、彩は二人に気になっていたことを問う。

「ところでお父さん、高山さん。さっき何の話をしていたの?」

「うん、彩ちゃん。たまには家に連絡を入れなさい。前みたいに一日一回とは言わないから。母さんも寂しそうにしているから」

 とだけ言い父親はお菓子を食べるばかりだった。高山は秘密と言わんばかりに含み笑いを見せる。それで自分だけが取り残された気がして、彩は一寸前と同じふて腐れた顔を見せた。

 しかし、お菓子を口に入れた瞬間にはもう忘れていた。

 甘いものを食べれば嫌なことも忘れられる。

 彩は、そういう子だった。