窓から見える空は、ぼやけたオレンジも混ざった青から無数の星が瞬く黒へ。そこから再び、明るい青を取り戻していく。

 彩はそれまで、ずっと眠れる彼を見つめていた。自身は全く眠ることなく。

 再びぎいぃっと扉が開かれても、それに振り向くことは無かった。

「あ、彩ちゃん。おはよう……って、もしかして寝てへんの?」

 低くて男らしく、迫力のある声。声だけでも分かる。伊藤だ。

 彩ちゃん疲れてるんとちゃうん? 少し休んだほうがええで?

 丸椅子に腰掛けて言おうとしたそれを、喉まで出かかったところで引っ込める。

 とても言える状況ではない。一晩明けてもまだ繋がれている二つの手を見ると余計に。

 ここへ来てそんな状況を作る行動をした覚えはないのだが、何となく気まずい。

 伊藤はそれを誤魔化そうと、現れた時から右肩にかけているバッグを開けた。

「あ、これ。高山の家に取りに帰ってん。合鍵使こうてな」

 ジーパン、シャツ類、パジャマ上下、下着、各数セット。これらも数が多くなれば重くなるものだが、柔道有段者の伊藤にとっては苦にもならなかった。

 それらが耳に、目に入っているのかいないのか、彩はただ黙って高山を見るばかりだった。

「そういえば」

 その彩に全く構うことなく、伊藤は口を動かし続けた。

「あいつの家、カップ麺やコンビニ弁当とかのゴミが全然無くて生活感ゼロやった。それより」

 自分だってこんなことを彩に報告する必要はないと分かっている。

 分かっていても、口を動かしていないと不安でたまらなかった。

 この重い雰囲気に押し潰されて、自分が自分で無くなるような気がして。

「睡眠薬の空箱が多かった気がする。あいつ、結構ナイーブなところがあるから睡眠不足になりがちやったんやろな。それとも、まさかとは思うけど……」

 流石に、それ以上を口にすることはできなかった。怖かった。

 彩はまだ、黙って高山を見るばかりだった。

 重い沈黙が部屋を包む。が、ふと彩が首を動かしたことにより状況は一変した。

「伊藤さん? いつからいたんですか?」

 どうやら彩は、伊藤が入ってきたことすら分からなかったようである。

 何とも寂しいような、しかし救われたような。二つの感情が伊藤の中で交錯した。

「あ、あの。伊藤さん、病院の中をうろついていないんですよね?」

 伊藤は首を縦に振った。事実だったから。

「この病院、高山さんのお父さんも入院しているんです。だから今日も高山さんのお母さんがここに来ているはずなんです」

 伊藤もまた、その話は人伝に聞いていた。だがとっくに知っているとは言わなかった。

「もし高山さんのお母さんに会うことがあっても、このことは内緒にしてくれませんか? 唯でさえ自分の旦那さんのことがあるのに、息子までこんなことになってしまったって知ったら――」

 震えた彩はそれ以上を口にすることができなかった。それを察した伊藤は何を言うでもなく、黙ってうなずいた。そして、藤井と森下にも言うておくからと続けた。

「ほんなら、高山を着替えさせたくなったらいつでも言うてくれ」

「いえ……私、やります」

 意外。そうとしか思えなかった。

 彩の初な一面を見たことがあるだけに、余計に。

 

 

 新緑に溢れた、五月のある土曜日。彩は今日もまた高山の部屋へ来ていた。

「高山さん?」

 玄関先で彼女を出迎えた、高山の様子がおかしい。

 顔が赤く全身が火照り、ボタンの掛け違いも多く着崩れたシャツも大量に掻いた汗で濡れている。呼吸も荒く、目も虚ろだ。

「彩ちゃん? 今日も来て……く……た……か? あり……と……」

 呂律も回らず、高山は彼女に倒れ掛かった。それはとても重く、非力な彼女では到底支えきれるはずもなく、ついにはその場に尻餅をついてしまった。

「お、重いよう!」

 扉も開かれたまま、外から見れば人目も憚らぬ積極的なカップルにしか見えないだろう。

 後から訪ねてきた、彼女らのことを熟知しているはずの伊藤、森下、藤井の三人とてそれは同じだった。

 苦しそうな高山と、彩のすがるような目を見たにもかかわらず。

「あ……なんやろ」

「お楽しみ中、だったみたいですね」

「邪魔したらアカンから、どこか他にでも行こうか?」

 三人が踵を返そうとすると彩は泣きそうになり、今出せる限りの大声を出し叫ぶのだった。

「え? あ、あの……誰か、誰か助けてー!」

 

 

「よし、これで大丈夫。彩ちゃん、もうええで」

 彩の悲鳴ともとれる大声に、流石の三人も事情を察し慌てて高山を室内へと運んだ。

 藤井と伊藤はベッドのシーツを取り替えた後、高山を新しいパジャマに着替えさせ寝かせた。

 料理が得意な森下はキッチンでお粥を作っていた。

「それにしても彩ちゃん、全然こっち見いへんやん」

 藤井の言葉通り、彩は顔を真っ赤にして壁ばかりを見ていた。

「だ、だって、裸じゃないですか」

「だから、もう大丈夫って言うてるやん。初なんやな、彩ちゃんって」

 まあ、これが彩ちゃんなんだと二人は笑いを噛み殺す。

「お粥、作っておいたから食欲が戻ってきたら食べさせてあげてください」

 ありがとうございます。部屋に入ってきた森下に彩はそう言い、浅く礼をする。

「皆さん、本当にすいませんでした」

「ええねんええねん。でも俺らが来んかったら今頃彩ちゃん、下敷きになってたで」

「はい……すいません」

 謝らなくても、と藤井は軽く溜息を吐き、眉をしかめる。

 しかし、次にはもう森下と共にその場を後にしていた。二人きりにしてやるのが人情というものだろう。と行動に移した伊藤に引っ張られる形で。

 

 

 あの彩ちゃんが。男性の半裸を見るだけで顔を真っ赤にしていた彩ちゃんが。

 時間が、今まで起こった出来事が、彼女を強くしたのか。

 何となく分かる気がする。

 伊藤自身も似た経験をしているし、そんな経験をした女性を見てきたから。