どれだけの時間が経ったのか。

 ぎいぃっと後方から音がし、彩はそちらへと振り向いた。

 黒い髪、今目の前で眠る彼とほぼ同じ背丈、小さな整った顔。藤井だ。

「あー……その……」

 藤井は静かに扉を閉め、自分たち、特に高山の体に障らないように気を遣いつつ口を開いた。

「さっきは逃げ出すような真似してゴメンな」

 応えるでもなく、彩はじっと藤井を見ている。

 彩は自分のしたことを根に持っていないし、仮にそうだったとしても責めたりはしない。

 そういう子だったと藤井は内心ホッと溜息を吐き、丸椅子に腰掛けた。

 

 藤井は眠り続けている高山の顔を見た。

 とても、綺麗。自分でもこうはいかない。

 何故か、そんな感想が浮かんでは消えていく。不謹慎だとは思いながらも。

「前に」

 気がつけば藤井は言葉を紡ぎ出していた。

「俺――自殺を図ったことがあんねん」

 自分でも分からない。何故かこんな、ますます気分を重くしてしまう話題を選んでいた。

「俺の家に強盗が押し入って、その時に親父も母さんも殺されて、なんとか生き残っていた妹も強姦されてもうた。でもその妹もショックで、俺の目の前で身を投げて――」

 聞いているのかいないのか、彩は頭を俯かせながらも静かに前を見ているだけだった。

「そん時に『俺が代わりに死ねばよかった』って思わず洩らしてもうた。でもその時、一番大切な親友は俺を殴って言うてくれた。『お前は生きなアカン』って。それで、前向きに生きようって思うてたのに、今度はその親友が――」

 藤井は堅く目を閉じた。

「俺が生きているせいでみんなが死んでまう。俺は、死神なんやって、伊藤さんたちを殺したくない、不幸にしたくないって、そう思って――」

 彩も一瞬だけ目を閉じる。

「自ら命を断とうと多量の睡眠薬を飲んだ俺を、伊藤さんも、高山さんも、森下も、みんな命懸けで助けてくれた。伊藤さんたちの祈りが、俺に生きる希望を与えてくれた」

 藤井は目を開き、目の前の彼を想い続ける彩に言う。

「彩ちゃんの想い、高山さんは無駄にしてないって言い切れる。せやから――」

 うなずくでもなく、ただ彩は高山だけを見ていた。

 藤井はこの場を去ろうと丸椅子から立ち上がった。

 またも逃げるのか? ともう一人の自分の意地悪な声を聞きながら。

 違う、二人きりにしてあげたいだけだとそれを振り払い、静かに退室する。

 そして一人扉に寄り掛かった。

 その中で、あいつが、伊藤さんが、自分にかけてくれた言葉を、今度は眠れる彼へと送った。

「高山さん、あなたは生きなアカン。あなたの親父さん、お袋さん、俺らの、そして彩ちゃんの想いを無駄にしたらアカン。あなたをたくさんの人が愛している。その人たちの為にも生きなアカン。生きるんや。何よりも大切な、あなた自身の為に……!」

 そこまで言ったところで、ぷっと吹き出した。

 何とも愚かだと言いたい、自嘲。

 くくくと彼は、笑いを噛み殺していた。

 

 

 いつもと何ら変わらぬ夜。静かな夜。

 その男の子は、ふと目が覚めた。

 目覚めるにはまだ早すぎる。再び眠りにつこうと布団を被り、目を閉じる。しかし。

 眠れない。理由は分からないが、とにかく眠れない。

 お父さんと、お母さんは?

 男の子は気になり、幼い自分にはまだまだ高すぎるノブに精一杯手を伸ばして扉を開いた。

 お城のように大きな家の、小さな体には些か長すぎる廊下を歩いた。

 ある部屋の前で足を止める。僅かに開かれた扉からは、光が漏れている。

 お父さん? お母さん?

 幼い好奇心に命令されるままに、男の子は部屋を覗いていた。

 お父さん。お母さん。

 しかし、部屋にいる父と母はいつも自分に見せてくれる姿とは明らかに何かが違っていた。

 表情が強張っている。二つの、高低差のある罵声が飛び交う。

 何だろう、ケンカかな? 幼い好奇心はそれから目を離すことを許さなかった。

 しかし、次の瞬間には男の子の幼心には到底予測のつかない事態へと変貌していく。

 父の大きな左手が、母の頬を強く捕える。母は頬を抑えて倒れこむ。

 恐怖に震えた瞳は濡れるが、父はそれにも変わらず今度は大きな拳を堅く握り締めて殴る。許しを請う悲鳴を全く耳にしようともせず蹴りも入れる。

 ――叩いた。お父さんが、お母さんを。

 好奇心はショックへと変わる。男の子はその場に膝を落とし、震えた。

 しばらく金縛りにあったかのように動けずにいた。が、何をどうしたのか全く自覚の無いまま、そこから自分の部屋へと戻っていた。

 潮風を思わせる青色のカバーの掛け布団に、震えた全身を包ませる。

 怖い、怖い。

 震えたその目を閉じても、眠りにつくこともできない。

 叩いた。お父さんが、お母さんを。どうして? あんなに仲が良かったのに。

 一寸前に目に焼き付けた、あの光景が頭から離れない。

 お父さんがお母さんを殴った。

 今日悪ふざけが過ぎて幼稚園の先生に叱られたから。いつまでも夜更かししてるから。

 きっと、僕が悪い子だからだ。僕のせいで、お母さんが。

 お父さん、お母さん。お父さんお母さん。お父さんお父さんお母さんお母さん。お父さんお父さんお父さんお父さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん。

 僕、もう悪い子にはならないから、お母さんを殴らないで。

「お母さん……」

 その日、男の子は自分がちゃんと眠ったかなど全く覚えていなかった。

 朝になり、いつものように起こしにきた母親が布団に包まっている自分を見つけたこと。覚えていたのはそれだけだった。

 しかし、隙間から見た光景は男の子の深層心理に刻まれることとなってしまった。

 

 

「……まさん、高山さん」

 彩は潮風を思わせる青色のカバーの布団と、その持ち主の体を揺らして起こそうと試みる。

「高山さん、高山さんってば」

 自身の体を揺らされたことで睡眠を妨げられ、持ち主、もとい高山は目を覚ました(元々意識が眠りから覚めようとはしていたみたいだが)。

「ん……彩ちゃん」

 布団カバーとお揃いと言うべきか、やはり潮風を思わせる青いカーテン。一人暮しには適度な広さのリビング、心地よい朝日が射すベッドルーム、システムキッチン、ユニットバス。室内の真っ白な壁紙からも、その外観からも、新築のマンションであることが覗える。

「高山さん、どうしたんですか? うなされてたみたいですけど?」

 ここは、高山の部屋である。無事に入学を果たし大学生となった彩は泊まりに来ていた。

 料理ができない、そして何より大好きな高山の為に土日は泊まりで食事の世話をしたいという、彩の提案が元で。

 その為大学では彩に関する変な噂が耐えないとか。当の本人は持ち前の性格故に噂の意を全く理解できていなかったのも、また可笑しな話だった。

「あ……え、と……」

 高山は寝ぼけ眼を擦り、次に金髪を一つ掻き揚げた。

「うん、ちょっとな。悪い夢を見てもうた。けど、彩ちゃんの顔見たら安心できたわ」

 ありがとう。口にする代わりに笑顔を作った。彩もまた笑顔になる。

「安心ついでにまた一眠りするわ。おやすみなさい」

「え? ちょ、ちょっと! 今から寝直すんですか?」

 笑顔から一変、彩は慌てて布団を引き剥がそうとする。

「寝るって、もう朝ですよ! ほら、八時」

 彩は、形は丸で青い目覚し時計を高山の目が半開きになった顔へと突きつける。

「今日は仕事、無いんですか?」

「あ……せや」

 高山はベッドから寝起きで重い体を起こし、欠伸をする。

「俺、シャワー浴びてくる」

「そうですか。それじゃ、私は朝食の支度をしておきますね。殆どできてるけど」

 うん、頼むわ。高山はそれだけ言い残し、ベッドルームに隣接するユニットバスの扉を開いた。

 

 

 彩は高山を起こす前に既に作り終えていた味噌汁を温め直していた。

 なんだろう。胸が、痛い。ズキズキする。

 お玉で掻き混ぜるだけという単純作業は、様々な考えを浮かばせては消していく。

 高山さん、泣いてた。お母さんって。

 本当は一時間ほど前に起きていて、そこで朝食を作り終えた時点で起こしてもよかった。

 眠りの淵にいる高山が「お母さん」と口にし一粒の涙を零している。

 とても起こすことなんてできなかった。

「私がしてあげられることって、これだけなのかな?」

 味噌汁が温められて美味しそうな湯気が立ち込める。それと同時にきいっと扉が開く。

 振り向けば濡らした金髪をバスタオルで拭い、適当に選んだらしいTシャツとジーパンを着た高山がそこに立っていた。

「あ、ご飯できてますよ。今日は和食、お味噌汁ににんじん入れたからちゃんと食べてくださいね」

 高山は苦い顔を見せながら金髪を拭う手を止めた。

 しかし、その後すぐにリビング中央に置かれた椅子に座っていた。

 嫌いなにんじんよりも大好きな彩の料理が食べられる嬉しさの方が勝ったようだ。

 

「うん、美味い。めっちゃ美味いわ」

 高山は味噌汁をひと啜りし唸った。それを彩はじっと見つめていた。

「分かってる。ちゃんとにんじんも食べるって、ほら」

 嘘をつくつもりはない。高山はにんじんを自分の口へと運んだ。口に入れる瞬間に苦い顔をし、飲みこむ寸前にも苦悶の表情を見せる。毒物と呼ばれるものを飲み込んでしまったかのように。

「……あ、でも結構美味いなにんじんも」

 しかし次にはそれが別人のものであるかのように、晴れやかな表情を見せる。

「食わず嫌いやってんな。今まで悪いことしてもうたわ、にんじんに」

 にんじんさんごめんなさい。とまるで子供のように謝った。それに彩はぷっと吹き出し、二人は笑った。

 笑い声はしばらく続いたが、高山は止めて話を切り換えた。

「あ、彩ちゃん今日予定は?」

「大学に行こうと思っています」

「え? 今日土曜日やん。休みちゃうの?」

「残ってる課題があるから。それを大学に置いてあるんです。高山さんは?」

「俺は、十四時から仕事の打ち合わせ」

 うん、頑張ってね。の後ご飯を頬張った。

 

 茶碗も、湯呑みも、すっかり空になる。彩はそれらを片し始めた。

「さてと、後片付けしないと。高山さん、もう食べ終わりましたよね?」

 高山の食器も空になっていることを確認しそれも片す。

 汚れた食器を流しへ戻し、蛇口を捻ろうと手を伸ばしたその時。

 腰や胸の部分に男性の、力強く暖かい腕の感触。

 また高山が自分を抱き締めている。止めてと言ったのに後ろから。

「高山さん、前に言ったじゃないですか。『後から抱きつくのは無し』って」

 振り解こうと手を腕にやった時、彩はあることに気付いた。

 ――震えている。

「ゴメンな。後から抱きつくの嫌やって分かってる。けど、今だけ。今だけでええねん」

 声も震えている。

「今だけ、こうしててくれ……」

 振り解こうとしたその手を、優しく高山の手に重ねた。

 子供のように弱々しく震える、逞しく男らしい大きな手に。