楽しい食事と一本の電話がきっかけとなり、彩と高山はその後も何度か会うようになっていった。

 彩は(沙希もだが)スタッフのアルバイトをそのまま続けていたが、それとは関係なく。

 その中で、高山は彩に自分の仲間である、ホープ(高山たちが所属するモデル事務所)の先輩後輩モデルを紹介した。

 

 筋骨隆々な体格とホープで一番の長身を誇る黒髪の、熱血に仕事をこなすがどっしりと構え的確な判断を下せる冷静さも持ち合わせた、高山曰く頼れる二つ年上の先輩伊藤一輝(初バイトの日に既に顔を合わせていたが、後日改めて紹介してもらった)。

 すっきりとした小さな顔と高山とほぼ同じ身長にスリムな体型を持つ黒髪の、誠実で男女問わず絶大な人気を誇る、高山にとってはいいライバルでもあるらしい二つ年下の後輩藤井博実。

 ホープ所属の中では一番背が低く根元まで茶色い髪の、誰にでも平等に優しく『癒し系』と評判で、高山にとっても可愛い後輩である一番年下の森下優。

 

 彩は三人ともに好感を持った。

 その中でも、森下とは街へ一緒に出歩く親友となっていった。彩も森下も無類の甘いもの好きだった。その為休日になる度に、新作が出る度に、大阪市内の喫茶店を巡っていた。

 しかしその度に森下は寒気を感じていたらしい。深くは追求しなかったが。

 

 

 この日はとても、寒かった。もうすぐ四月だというのに。

 道行く人々は皆、コート、手袋等の防寒具が手放せなかった。

 無論、高山と彩の二人も例外ではなかった。彩のマンションに辿り着くまで、二人とも防寒具を襟まで立ててしっかりと着込んでいたのだから。

「ごめんなさい。こんな日に送らせてしまって」

 彩は自室の玄関の施錠を外しながら、寒さを凌ぐ為に手を擦り合せる高山を気遣った。

「ええってええって。それに、彩ちゃんの部屋にも上がれてラッキーやし」

「そう思ってもらえて嬉しいです。でもごめんなさい、私の部屋ってそんなに期待されるほどのものじゃないんです」

「いや、そうやなくて……」

 施錠を外し終えて表情も柔らかな彩に、高山はまあええわと自分を無理矢理納得させる。

「さあ、どうぞ。狭い部屋ですけど」

 うんとその返事も苦々しく、高山は中に入った。彩は気付かなかったが溜息混じりに。

 

 

「結構洒落てるやん、彩ちゃんの部屋」

 脱いだダークグレーのダウンジャケットを右手に持たせた高山が、部屋を見回しつつ言った。

 玄関から二、三歩歩けばユニットバスの扉がある。玄関からも見える位置に狭いリビング、その中央部に小さなテーブルが置かれていることでより狭さに拍車をかけている。さらにそこから壁も隔てぬ位置に流し台とガスコンロが一台あるだけの簡易なキッチンがある。間取りはそれだけの、お世辞にも豪華で広いとは言い難い部屋だった。

 隙間からオレンジ色の光が一筋、二筋と射し込む淡いピンク色のカーテン。枕や布団に花や果物等の可愛らしいイラストがプリントされているカバーをつけたベッド。漫画、恋愛小説、ファッション、料理等様々なジャンルの本が置かれた低い本棚。その上にはウサギの小さなぬいぐるみ、『オタマジャクシのタマオ』の日捲りカレンダーが置かれている。キッチンも未使用と間違われてもおかしくは無いほどに綺麗に片付いている。ここが、彩の部屋である。

「ところで高山さん、お腹空いてません? もうそろそろ晩ご飯にしようかなって思ってたんですけど」

 真っ赤な生地も鮮やかなコートをクローゼットにしまいつつ彩が言った。

「え? もうそんな時間か。そういえば腹減ったなあ」

「それじゃ、シチューでも作りますね。ちょっと時間かかるけどいいですか?」

 彩はピンクのエプロンを身につけつつ、「ええで」という高山の返事を確認した。

 そしてキッチンに立ち材料である野菜の皮を剥き始めた。

 

 

 彩の握った包丁に、野菜や肉が次々に切り刻まれていく。

(料理している女性の後ろ姿って色っぽいなあ)

 その後ろ姿を、高山はリビングのカーペットに腰を下ろして見つめていた。

(……そういえば俺、おふくろのそういう姿を全然見てへんな)

 しばらく魅了され彼女の後ろ姿をじっと見つめていたが、不意に立ち上がった。

(ふ……そういう姿どころか、おふくろと真正面から向き合ったことすらないやん、俺)

 その足は自然とキッチンへと動いていた。

(おふくろどころか、親父ともしっかりと向き合うてへんやん。……って、何を思い出しとんねん、俺。最も触れたくない、ずっと目を背けていたことやのに)

 動きは、一つ一つ丁寧にじゃがいもを切り刻んでいる彩の真後ろにきたところで止まった。

「彩ちゃん♪」

 それから高山の腕が彼女の腰を抱き締めるまで数秒とかからなかった。

「キャッ!」

 驚きのあまり、彩は誤って自分の指をも切りそうになった。が、包丁は指を掠めじゃがいもだけを切った、という幸いな結末に終わった。

 高山の大きな手に彩お気に入りのピンクのセーター、それを通して彼女の柔らかで暖かい肌の感触が伝わる。

 高価な香水も、化粧品も何も混じり気のない、彩愛用のシャンプーの純粋で爽やかな香りが高山の嗅覚を刺激する。

 柔らかな肌と、純粋な少女の香り。高山はしばらくそれに惹かれ、うっとりと夢の世界に浸っていた。

 しかし、次には無理矢理彼の腕を解いて振り返った、彼女の怒りの形相に現実へと呼び戻される。

「ちょっと! 危ないじゃないですか!」

 彩は高山を睨んだ。その眼光も鋭く、怒りのあまり包丁をまな板に置くことも忘れて(本人はおそらく意識していないだろうが、包丁の刃も高山に向けられていた)。

「ケガでもしたらどうするの? できあがるまで大人しく待っていてください!」

 内気な彼女からは想像不可能なほどの剣幕に圧倒され、高山はすごすごと引き下がるより他ならなかった。

 その表情も凍り付き、いつも明るくお調子者で、仕事でも自ら盛り上げ役に徹する彼とはこれまた想像不可能なほどに。

(そ、そんな……。俺、彩ちゃんに思いっきり甘えてみたかっただけやのに……)

 そして彼は待ち続けた。その様は主人に叱られがっくりと項垂れる大人しい子犬と殆ど大差がなかった。もちろん、料理も楽しみなことに変わりはないが。

 そんな彼のことなどお構いなしに彼女は料理を進めていた。

 鍋の中に切った野菜や肉を入れて炒める。焦げない程度に炒め終えたら水を加えて沸騰させる。沸騰したら灰汁を取り約十分間煮る。材料が柔らかくなったら市販のルーを割り入れてとろみがつくまで煮る。最後に牛乳をちょうどよい味になるまで加えてできあがり。そこまで彩は高山の顔など一回も見ようとしなかった。

 が、それはけっして怒っているわけではない。

 暖かな湯気を出す鍋と共に振り返った時に見せた笑顔が何よりの証拠。

 早く彼に自分の手料理を食べて欲しかったから、それが高山を一度も見ることなく料理を進めていた理由であった。

「はい、ご飯できましたよ」

 もう彩は怒っていないというのに、先程の剣幕によほどショックを受けたのか高山はまだ項垂れた子犬のままであった。

 そんな彼を気遣い、彩は笑顔で鍋を小さなテーブルの中央に置いた。次に怒りは微塵にも含まれていない、優しい声で言うのだった。

「さっきはごめんなさいね。一緒に食べましょう」

 高山は満面の笑みでうなずいた。その様もまるで主人に優しく撫でてもらった子犬のようで、もしも彼に尻尾があったなら勢い良く振られていただろう。

 

 

 テーブルの中央に置かれた鍋は、コンロから離れて時間が経ったにも関わらずもうもうと湯気を出している。その鍋の中から彩がクリームシチューのいい匂いに食欲を刺激されつつよそう。自分のシチュー皿と、高山のシチュー皿には自分より多めに。

「あのな、俺、にんじん嫌いやねん。せやから……」

「あら、好き嫌いはいけませんよ。それに、にんじんって結構美味しいですし」

 だからたくさん食べましょうね。と言葉には出さず、高山の皿ににんじんを大量に入れるという(高山にとっては)嫌がらせに出た。

(やっぱりさっきのことをまだ怒ってるんやろな。そりゃ、抱きつくのはやり過ぎやって反省してるけど……)

 これも彼女なりの愛情なのだが、高山には全く伝わっていなかった。ついでに言えば彩が料理中に一度も高山を見なかった理由も。

「それじゃ、いただきます」

「い、いただきます」

 彩はシチューを一つすすった。高山も苦そうな顔を見せつつも、シチューに口をつけた。

「よかった、美味しくできてる」

 彩は自分の喉を刺激した暖かさと旨みに心底安心した。

「高山さん、どうですか? 美味し……」

 彩はスプーンを操る手も止まらないまま、料理ができあがった時と同じく顔を綻ばせた。が、目の前の高山を見た途端、彼女の顔は元に戻り手も口もその動きを止めざるを得なかった。

 ――泣いている。

 高山は泣いていた。その目から大粒の涙をぽろり、ぽろりと一つ一つ地に落として。いつもの明るさがなく暗い顔で。

 原因はシチューだとしか考えられない。自分たちの目の前に今あるのは、それしかないのだから。

「どうしたんですか? もしかして、泣くほどにんじん嫌いだったんですか?」

「いや、ちゃうねん。それとはちゃうねん」

 高山は自分の息で冷ましてから熱々のじゃがいもを口にした。涙しながらも、彩の作ったシチューを一つ一つすすっていった。

「ただ……シチューってこんなに暖かいものやったんやなって」

「え?」

 その言葉にいまいちピンと来ず、彩はしかめっ面を見せるより他ならなかった。シチューといえば暖かいもの、それが彩だけではなく世の中の常識なのだから。

「実は俺……今まで手作りのシチューって食べたことないねん。いやちゃうわ。お袋の手料理ですら食べたことがないねん。せやから……」

 手作りシチューの味に感動を覚えた高山は、途中自分の息で冷ますことも忘れ口の中が火傷寸前にまでなってしまった。そんな彼を彩は思いやり、冷たい水を注いだコップを黙って差し出した。そしてしかめっ面になるでもなく笑顔でもなく普通の表情を見せた。

「せやから、ずっと憧れてた。スーパーのお惣菜でも、レトルトのカレーやシチューでもない、本物の手料理ってやつに」

 一流シェフが作った高級料理ではない、ごく普通の手作りの料理。それは、幼少期の高山がどんなに望んでも手に入れることのできないものであった。

「俺の親父は政治家、お袋は映画評論家。それぞれ多忙の日々を送っていたから、一人息子である俺なんて殆ど眼中になかった。二人ともいつも家を空けてた。せやから、俺はいつも一人ぼっちやった。お城のような広い家で……」

 いつものように仕事場で場を和ませるでもない、街にいる女性たちをナンパするでもない。彼は自分の身の上を静か且つ簡潔に語り始めた。

 

 朝起きれば誰もいない静かで大きな食卓に数種類の菓子パン。お昼は学校の給食(高校は自分で買った菓子パンやおにぎり)。夕食は温めなおした出来合いの弁当。たまに家族三人が揃っても、芸能人や政治家等各界の著名人が常連である高級レストラン。それが、高山が家を飛び出すまでの十七年間に送ってきた食生活だった。

 政治家と映画評論家の多忙な夫婦。多忙さ故にたった一人の、自分たちの息子を顧みることもなく仕事に打ち込んでいた。一年三百六十五日、その殆どは家を空けていた。

 静寂が囲む食卓と、広い家で孤独を共にする。それが、高山の日常であった。

 それ故に、いつも憧れていた。手作りの料理に。誰かと囲む食卓に。誰かと一緒にいる、暖かい家に。

 

 それが今、こうして叶っている。

 小さくはあるものの食卓を、惹かれつつある彼女、彩と囲んでいる。

 高級な食材も使われていないが、体だけではなく心までも暖めてくれる手作りのシチューを食している。狭くはあるが暖かみのある部屋に二人でいる。

 ずっと憧れていた光景が今目の前にあり、何より自分自身が体験しているのだ。

 それ故に感極まってしまい、涙として形に出てしまった。というわけである。

「高山さん……」

 仕事場ではギャグを言ったり面白い顔や仕草をしたりの、明るいお調子者の盛り上げ役。休憩中には同期や後輩とのスキンシップと称して腰を触る。街へと出れば『ナンパは俺の生き甲斐』が信条の女好きで、好みの女の子を見つければ誰と問わずに声をかける。それが、世間一般から見た高山の姿だった。

 甦る幼少の孤独に苛まれ、暗い表情を見せる。手作りの暖かい料理に大粒の涙を零す。それが、今目の前にいる高山の姿だった。

 彩自身が高山に対して今まで抱いていた印象もまた、世間一般と同じものであった。しかし、今起こった出来事でそれは全て覆されてしまった。

 高山が気に入った女の子に声をかけている。それは彩もほぼ毎日のように聞かされていることだった。もしかしたらそれは誰かと一緒にいないと不安に陥ってしまう、孤独を埋めたいが故の行動なのかもしれない。彩の心にそんな考えが膨らんでいく。

「あ……ごめんな。大の男がシチューくらいでびーびー泣いてもうて」

「え? あ、いえ……」

 抑えこめぬ考えに支配された彩を、高山の声が不意に呼び戻した。いつのまにか暗くなり俯かせていた顔を上げ、慌てて無表情に変えた。

「あの、高山さん。食べながらでいいから聞いてくれませんか?」

「うん?」

「いつでも言ってくださればシチューでも、何でも手料理を食べさせてあげますから。ずっとそばにいますから。だから……」

 高山はスプーンを操る手を止めた。彩の言葉を真剣に受け止める為に。

 肩が震える。その瞳も潤む。感情を抑えられない。

「だから、もうそんな暗くならないで。明るい高山さんのままでい続けて」

 高山は静かにうなずき、彩の柔らかい頬に手を添えた。彼の手の暖かさで、彼女の涙は一滴を零しただけに終わった。

 

 

 それから数分経ち、シチューをすっかり平らげた二人は仲睦まじく後片付けをしていた。

「あ、そうだ」

 泡だらけの手で食器を洗いつつ、彩は高山を見ていうのだった。

「いつでも手料理を食べさせてあげるって言ったけど、後から抱きつくのだけは無しですからね?」

 顔は笑み、しかし目だけは威圧という表情の彩に、高山は食器を拭く手を動かしながらもうなずくしかなかった。

(……はあ、ちょっとだけ期待外れやなー。残念!)

 嬉しさ半分、寂しさ半分。それが今の高山の心情を表すのに最適な表現だった。