彩が大阪での新生活を始めた日から一週間。

「頑張ろうね、彩ちゃん」

 彩より少し背が高く、薄く化粧をして大人っぽい、しかし同い年の少女が明るい笑顔交じりに言った。彩もその少女、阿部沙希にぎこちない笑顔で応える。

 阿部沙希は彩が現在一人暮しをしているマンションの良き隣人であり、また四月から同じ大学に通うこととなった(学部は違うが)友人でもある。

 

「今日からスタッフに加わってもらう阿部さんと藤崎さんね」

 ここは大阪某所にある、キャパも設備も半端なものではない大きなホール。

 彩と沙希は、人気の男性モデル二人が出演するイベントスタッフのアルバイトとしてここにいる。

「皆さん初めまして。阿部沙希、この春から大学一年生です。よろしくお願いします」

「は、初めまして。同じくこの春から大学一年生になる藤崎彩です。よろしくお願いします」

 沙希は仲間のスタッフは元より主役であるモデルたちにも好印象を与えるように明るく、彩は緊張に震えながらもはっきりと挨拶をする。

「初めまして」

「よろしくね、藤崎さん、阿部さん」

 スタッフパスを首から下げた男女数人が、ある者は笑顔で、またある者は無表情で、二人を受け入れた。

 更に、一番前に出た男性二人が彼女らを受け入れる。

 

 おうと冷静に返したのは、筋骨隆々で逆三角形の長身を青い英字がプリントされた水色の布地のシャツと丈の長いジーパンに包んだ黒髪の男性。

 よろしくと気さくな返事と爽やかな笑顔を見せたのは、黒髪の男性より低いがスレンダーな長身を一点の汚れも無い真っ白なシャツと細身のジーパンに包み、カラメル状に黒が顔を覗かせる金髪と両耳につけたシルバーのピアスが目立つ青年。

 男性と青年は今日の主役で、そして現在数種の男性向けファッション雑誌はもちろん各種メディアに引っ張りだこのモデルである。

 しかし少しも気取った様子を見せず、普通の青年とほぼ変わらぬ印象を抱かせる。

 事実彩と沙希が紹介されるまで二人とも普通にスタッフと(特に金髪の青年は女性と多く)談笑していた。

 そこが、彼らの魅力なのだろう。

 

 ――何故、自分はここにいるのだろう。

 彩はぽかんと無表情なまま、今いるこの場を見ていた。

「ねえねえ(彩の肩をぽんと叩く)高山さん、高山さん」

 彩の肩をぽんぽんと叩きながら、何やら嬉しそうに沙希が喋りかける。

 沙希が見ているのは、自分たちにも気さくに挨拶してくれた、金髪の青年。

「さっきの見た? 高山さんが私たちにも気さくに挨拶してくれるなんて」

 実はこのバイトを始めようと言い出したのは沙希のほうだった。

「伊藤さんも男らしくって格好いいんだけどお、やっぱり高山さんのほうが気さくで親しみが持てるかなあ、なんて」

 沙希は自他ともに認めるかなりのミーハーで、このバイトも(お金はもちろんのこと)男性モデル目当てで始めたものだった。つまり彩は巻き込まれたのも同然であった。本当はコンビニやファーストフードでのバイトを考えていたのだが。

 沙希に指差されるままに、彩は高山と呼ばれる金髪の青年を見ていた。

 何だろう。どこかで会ったような気がする。

 金髪の青年の明るく笑った横顔を見ながら考えていた。

 思い出そうと、一つ一つ自分の記憶を手繰り寄せる。

「それじゃ阿部さん、藤崎さん。仕事の打ち合わせも兼ねて色々教えたいこともあるから移動しましょう」

 チーフ格の女性が二人を呼ぶ。沙希と彩はそれについて行く形でこの場を後にした。

 疑問の答えは出なかったが、まあいいかという言葉を結論にして。

 

 

 それから時間も経ち、青かった空には薄らとオレンジや黒も混ざってきていた。

 イベント会場となったホールは大盛況、主役となったモデルたちの評判も上々なものだった。

 彩と沙希の初仕事は、無事に終わった。

 チーフ格の女性の手解きが的確だったのと、二人の飲み込みが早かったのもあって。

 沙希は特に、お目当てのモデルのそばで仕事ができたという満足感で一杯だった。

 彩もまた、ああ自分はやり遂げたんだなという充実感に満たされていく。

「お疲れー」

「よっ、お疲れさん」

 今日の主役を無事に務め上げたモデルの、黒髪の男性伊藤と金髪の青年高山が彼女らを労う。特に高山は笑顔もセットで。

 スタッフたちへも労いを忘れないのが、二人が皆に愛される所以であった。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 彩と沙希はすぐに、沙希は特に感激を強めて返す。モデルさんに挨拶してもらえた、と。

 沙希の心は感激で溢れそうになっていた。ぽーっと、特に高山を見ている。

 高山を見ていたのは沙希だけではない。彩もまた高山をじっと見つめていた。さっきまでの疑問が甦ってきて。

「あ、あの」

 自分の気持ちに整理をつかせる為、彩は口を開いた。

「あの、どこかでお会いしませんでした?」

 意外な行動に出た、と沙希は彩を見た。伊藤もまた彩を見ている。

 逆ナン? と言わんばかりに高山もまた彩を見ていた。

「もしかしたら、私の思い違いかもしれませんけど……」

 彩は真剣に、そして不安げに高山を見ていた。

「あー、思い出した!」

 不意に出された大声に、沙希も、話を切り出したはずの彩も思わずたじろぐ。

「アヤちゃん?」

 不安な瞳が、高山の何かを呼び覚ましたらしい。

「アヤちゃんやろ? ほら、この前変なオヤジに絡まれてた」

 そうです。その通りです。口にする代わりに、彩は首を何度も縦に振った。

「あの、あの時はありがとうございました。すいません、あの時お礼を言い損なって……」

「ええねんええねん。あれから大丈夫やった?」

「はい、なんとか……」

「俺てっきりアヤちゃんのこと中学生やって思ってたのになあ、大学生やったとは」

 俺も女を見る目が落ちたかな? そう言わんばかりに金髪を掻く。

 彩は軽く、笑った。

 いつのまにか、伊藤と沙希はいなくなっている。

 高山は笑顔のまま、続けた。

「もしこの後予定がないんやったら、一緒にメシでも行かへん?」

「はい。もうお腹ぺこぺこで」

 そうじゃなくて、と言わんばかりに笑顔が一瞬だけ消える。しかし、次の瞬間にはまあええかと再び笑みを見せる。

 あの時と同じく、高山は彩の手を取り歩き出した。彩もまたそれについて歩く。

「あんな、これだけは言うておくわ」

 高山は不意に歩みを止めて、言った。

「ああいうオヤジの『メシ行かへん?』には下心があんねん。あの後変なお店に連れて行かれて『七万でどうや?』とか言われて変なことをされる。そういうオチや」

「……はい」

「まあ、俺は絶対そんな真似せえへんけどな」

 彩へと振り返り、高山は笑顔と共にそう締める。

 彩もまた笑顔で、黙ってうなずいた。

 そして、高山の手を強く握った。

 

 

 こんなはずやなかったんやけどな。

 今自分の置かれている状況から、高山は思った。

「ごめんなさい、どうしてもこれが食べたくなって」

 どこでもええとは確かに言うたけど。

 満足げな彩を前に、高山は言葉を飲み込んだ。

「美味しいですね、お好み焼き」

 うんと、軽く生返事をする。

 でもまあええかと無理矢理自分を納得させた。

 むんむんとした熱気、美味しさを含めた湯気、無数の満足な表情、熱々の鉄板。二人は今、大阪でも上々の評判のお好み焼き屋にいる。

 どうしてもお好み焼きが食べたかったという彩の意見を高山が聞き入れた為に(自分でも思い返している通り、彩を立てたというのもあるが)。

 しかし、高山の狙いは別にあった。

 行き付けのお洒落な店に連れて行き、雰囲気と食事をも味方につけて口説き落とそう、と。

「昨日偶然見ちゃったんです。グルメ番組のお好み焼き特集」

 グルメ番組め、と心の中で恨みをぶつける。しかし、次にはそれがあまりに滑稽でぷっと吹き出してしまう。

「お好み焼きを見たら、広島が懐かしくなって」

 えっ? と高山は一瞬だけ洩らし、熱々のお好み焼きを頬張った。次にはふはふと飲みこむ。

「アヤちゃんって大阪の子ちゃうねや?」

「はい。大阪市内の大学に通う為に広島から出てきたんです」

「そうか、広島の子やったんか……」

「あの……」

「うん?」

「どうして私の名前を知ってたんですか?」

「え?」

「あの時もそうですけど、さっきもほら、『アヤちゃん』って」

「ああ、あれか。あれはな……」

 再び咀嚼したお好み焼きを飲み込み、続けた。

「俺の身内に『アヤ』って名前の女がおんねん。あの時彩ちゃんがオヤジに絡まれているのを見つけて、助けようと咄嗟に出てきた名前が『アヤ』やってん。まさかホンマに『アヤ』って名前やったとは」

 俺って超能力者なのかも。笑いながらそう続け、お好み焼きを頬張る。

「高山さんってお姉さんいるんですね?」

「いやちゃうよ。俺は一人っ子、上にも下にも兄弟は無し、や」

「そうなんですか。あ、私お兄ちゃんいるんです。自称『風来坊』の」

 へえとだけ返し、残りのお好み焼きを全て飲み込んだ。

 高山はまだ熱の残る鉄板をしばらく見つめていたが、ふと思い立ったかのように話題を切り出す。

「あ、せや。彩ちゃん、携帯持ってへんの?」

「は? あ、はい。これです」

 彩は持っていたバッグから携帯電話を取り出した。

 今では普通になった折り畳み式の、ミルキーピンクの使いこまれた携帯。それを高山に見せる。

「俺、彩ちゃんがどんな待ち受けにしているかっていう興味あってん。ちなみに俺はこれ」

 自分のリュックからメタリックブルーの、同じく折り畳み式の携帯電話を取り出し彩に手渡す。

 彩がそれに興味を引かれているその間に、高山はピンクの携帯を見る。

 ボタンをいじっているようにも見えるが、彩は全く気付いていなかった。

「これ……オタマジャクシ?」

「はい。『オタマジャクシのタマオ』っていう絵本の主人公です。私、小さい頃からそれが大好きだったんで」

 へえとだけ返し、じっと見ていた(ボタンはもういじっていない)。

「高山さんのは……海、波の写真ですか?」

「うん。名前が『海(かい)』っていうからか、海が好きやねん。せやから」

「いい名前ですね。それに、私も海は好きです。きれいだから」

 ありがとう、と高山は彩に携帯を返した(最後にボタンを一ついじっていたようだが、彩は全く気付いていない)。彩もまた高山に携帯を返した。

 

 

 結局、この後は普通に会計を済ませ、普通に別れただけだった。

 別れ際の高山の笑みがぎこちなかったが、彩には理由が分かる筈もなく。

 お好み焼きの満足感も残したまま、自分の部屋へと戻る。

「あ、彩ちゃん。お帰りなさい」

 扉の前で、何故か隣の部屋の住人であるはずの沙希が彼女を出迎えた。

 どことなく、何かに興味を寄せる笑顔を作っているようにも見える。

 拒む理由もなかったので、そのまま沙希と共に部屋に入った。

 

「ね、ね、どうだった?」

 沙希は彩が出した飲み物に一口つけて問うた。

「どうって?」

「どうってもう、あの後高山さんに食事に誘われたんでしょ?」

「一緒にお好み焼きを食べたの。美味しかったよ」

「それだけ?」

「あ、あと帰り際に『広島風のお好み焼きもいつか一緒に食べられたらいいね』って話もしたよ。高山さんが笑ってうなずいてくれたのが嬉しかったな」

「……本当にそれだけ?」

「うん。高山さんもいい人だし、楽しかった」

 そうじゃなくて、と言わんばかりに溜息を吐く。

 当然、彩には溜息の理由など分かる筈もなかった。

「わ、私、もしかして高山さんに変なこと言っちゃったのかな?」

「まあ、それは無いと思うけど……」

 沙希は残りを全部飲み干した。

「彩ちゃんも早く男の人のことが分かるといいね」

 その言葉の意味が解せず、彩はただただきょとんとするばかりだった。

 沙希はまたも溜息を吐くが、これが彩ちゃんなんだと自分を無理矢理納得させた。

「ま、まあ、楽しかったんならいいや。おやすみ」

「おやすみなさい」

 どことなく笑顔を引き攣らせながら、沙希は部屋から出ていった。

 

 

 彩が部屋で一人くつろぎ出してから数分後。

 バッグからミルキーピンクの携帯を取り出した。殆ど日課となってしまった、広島の実家へと連絡を入れる為に。

 彩にはファーザーコンプレックスの気があり、一日最低一回は父親の声を聞かなければ安心できなかった。

 携帯に登録したメモリーから、実家へといつものように電話しようとしたその時。

 何か変な操作でもしてしまったのか?

 見慣れない、自分で登録した覚えのない番号がそこにあった。

 とりあえず、今問題になっているワン切り等の悪質なものではなさそうなので、かけてみることにした。

 コール音が鳴っている間、彩は緊張から解放されることはなかった。

 今までこんなことなかった。

 一体これはなんなのだろう。

 緊張が最高潮に達した時コール音は切れ、通話状態に変わった。

「はーい、もしもしー」

 聞こえるのは、明るく柔らかな低い声。そこから察するに、元気な性格の男性なのだろう。しかし彩にはこの声に聞き覚えがあった。

「あ、あの……これって?」

 それも、数時間も前に聞いていたものと全く同じであった。

「あはは、分かるか? 俺やねん、俺。高山や」

「高山さん?」

「あん時彩ちゃんの携帯借りたやん? あん時にな、ちょいちょいっとメモリー登録させてもろてん。驚いた?」

「は、はい。こんなの、初めてで……」

 自分が紡いでいる言葉が言葉として成立しているか、今の彩には全く自覚できなかった。

 心臓はばくばく言っている。さっきの緊張など比にはならないだろう。

「もう少し彩ちゃんと話をしたかってん。ゴメンな、勝手な真似してもうて」

「いえ……ありがとうございました」

 緊張に心臓が刻むリズムを狂わされながらも、体が震えながらも、混乱で頭が真っ白になりながらも、彩は唇を動かし言葉を紡ぎ出していた。

 話すのが、楽しい。

 父親と話したときのそれとは尋常な差がつくほどに。

 どちらが上かなど、考えるのも愚かなほどに。

 どれだけの時間話したか、分からないほどに。

 気がつけば、淡いピンクのカーテンの隙間から見える空からは瞬いていた星も消え、少々の青が混ざり明るい。

「あ、もうこんな時間。すいません、ついつい話すのが楽しくなってきちゃって……」

「あはは、ええねんええねん。俺も彩ちゃんと話してて楽しかったし」

「でも高山さん、仕事があるんじゃないですか?」

「大丈夫やって、今日の仕事は夕方からやし。彩ちゃんの方こそ大丈夫?」

 はい、と彩が返事をするとまたもよかった、と嬉しそうな相手の声が聞こえる。彩も嬉しかった。

「それじゃあ、ここらで一区切りつけません?」

「せやな。夕方に向けて一眠りしたいし」

「それじゃあ、おやすみなさい」

 ありがとう、おやすみ。の後、電話は切れた。

 彩は携帯を握り締めたまま、天井を見つめていた。

 結局父親の声は聞けず終いとなったが、それ以上の安心感を得られた、と考えつつ。