三月に入って間も無い、春と冬の優しさと厳しさの風が吹く難波。今日も今日とて街は雑踏で溢れている。
新生活を迎えるに当たっての生活用品を揃える為、そして暇ができた時に遊べそうな穴場を見つけておく為、その中を彩は歩いていた。
安くて品揃えも豊富な雑貨屋、お洒落な服がたくさん置いてあるブティック、美味しい洋菓子が食べられる喫茶店。それらを記憶に留める。
動きやすさ重視の、平たい靴がアスファルトを蹴る。その音をいくらか聞いたところで赤信号に差し掛かり、止まりざるを得なくなった。
二十秒、三十秒と経っても信号は変わらない。
関西人のせっかちな性分か、そこにいた人間には貧乏揺すり等の変化は確実に現れていた。
しかし気の長い彩には信号待ちの僅かな時間など苦にも感じられなかった。一人の中年男性が隣に立つまでは。
狸の如く弛んだ腹、だらしなく着崩れた衣服(若者のお洒落ではないことを脇についた汗の染みが物語っている)。額に吹き出た汗は拭っても退かず、顔の表情も緩み切り締りが無い。
その中年男性は彩の隣にぴったりと立ち更に顔を覗き見るという、見も知らぬ者からされれば何らかの不快を覚える行為に出た。案の定彩はそれに怯んだが体を反らすのみだった。
その反応をどう捉えたのか中年男性の顔は更に緩む。その体からは中年特有とも言える臭いを放ち、有無を言わさず嗅いでしまった者は皆中年から離れていった。
横断歩道手前に、彩と中年男性を中心としたドーナツ状の人だかりができた。
寄り添い、覗き見、体臭。それらに恐怖を覚えた彩は中年男性から一歩分離れた。しかし中年男性もまた一歩分、彩へと近寄る。彩も負けじとまた一歩離れる。中年男性もまた一歩近寄る。
中年男性が近寄れば彩は離れる。近寄る、離れる。近寄る、離れる。堂々巡りが止まらない。
「あの……何なんですか? さっきから」
彩は勇気を出し、第一声を発した。これが今の状況から脱け出すきっかけになってくれれば。
しかし火に油を注ぐ結果にしかならないのだと、中年男性の次の行動が代弁した。
中年男性はにいっと(本人にはそのつもりはないのかもしれないが)不気味に笑った。
彩はもう覚悟を決めていた。
もう逃げ場はないし、逃げたところでまた同じことを延々と繰り返す羽目になるのだから。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん。食事せえへん?」
「食事……ですか?」
「ええ店知っとんねん。な、いこいこ」
「え? あ、あの……」
中年男性は彩の右腕をガッと掴み、強引に引っ張った。
「あ、あの、私……」
彩はそれに同意を示すつもりは毛頭ない。顔や体と同じほどに脂ぎった手を振り解かんと抵抗するが、到底敵う筈もなく。
「今お腹空いてないんです」
最後の抵抗とばかりに言葉を投げかけるも、中年男性の耳には届いていなかった。
否、届いていたとしても彼女を解放する意志は毛頭ないのだろう。
恐怖を覚えた彩は藁にもすがる思いで周りを見た。
しかし周りは見て見ぬふりを決め込むばかりだった。
信号もまた、彼女の味方になろうともせず。
このまま引っ張られていくしかないのか。
「アヤちゃん♪」
どこからともなく聞こえた声と同時に、彩と中年男性の距離は離された。
彩の右腕を今握っているのは中年男性ではなく一人の青年。外見だけで判断するなら、二十代半ばといったところか。
「アヤちゃん、ゴメンな遅れてもうて」
春の優しい風になびく、カラメルの如く黒が顔を覗かせる金髪。白いシャツに細身のジーパン。凛とした立ち振る舞いに顔立ちも整い、にっこり笑顔を見せられても不気味には思えなかった。
青年のこともまた、名も素性も全く知らないのに。
途惑う彩に、青年はアイコンタクトだけで「話を合わせて」と訴える。この場から逃れられるならと彩が出した答えはただ一つ。
ただ黙って、うなずいた。
青年は彩を自分の影に隠し、次に顔は笑みのまま、しかし目力を強めて中年男性に詰め寄った。
彩と立場が逆転し、今度は中年男性が恐怖を覚え震えた。
「それじゃ、これから俺らデートなんで。俺の彼女に変な真似したら……」
しばき倒すで、おっさん。と声に凄みを利かせて耳打ちする。中年は身震いし、動けなくなった。
その隙を狙い、青年は彩の手を握り歩き出した。
彩にしてみればその状況から逃れられればよかったので、青年に全てを任せることにした。
それでも青年の手を堅く、強く握った。
もしも離れてしまったら、またさっきのような目に遭ってしまうのではないかと不安で。
「ここまで来れば大丈夫やな」
あの場から十分ほど歩いた所で青年は歩みを止めた。それが彩にとっては不意打ちを食らった感じで、思わず青年の背中に頭をぶつけそうになってしまう。
「大丈夫か? あの辺はああいうスケベオヤジが多いから気いつけなアカンよ」
「え? あ、はい」
ぽかんとした彩を、青年はただ見ているだけだった。が、すぐに。
「それじゃあ、俺行くわ。お嬢ちゃんみたいな可愛い中学生をスケベオヤジはよう狙ってくるから、気いつけなアカンで」
ありがとうございました。でも私、中学生じゃありません。
そう口にしようとした頃にはもう、青年は踵を返し彩の声が届かない位置にいた。そこで元々の連れらしい茶色い髪の青年と何やら話していた。が、すぐに二人で何処かへと消えてしまった。
彩は黙って青年たちの消えた方向へと一礼をし、その反対へと歩き出した。
今度はさっきのような目に遭わないよう、注意もして。
◆
思えばあの時もこんな感じで手を握っていたっけ。
彩はあの時と同じ、でもどことなく違う手を握り締めながら考えていた。
不安なのは、あの時と同じ。
――もしも離れてしまったら――
あの時は彼が私を助けてくれた。
今度は私が彼を助け出し、手を引く番。
歩いて、歩いて、何分も歩いたところで歩みを止めて、こう言ってあげるんだ。
「ここまで来れば大丈夫」と。