気まずい沈黙だけがこの場を支配する。それでも聞き慣れた、そして聞くのもいい加減嫌になってくる機械音は止まらない。
誰も喋らない。喋ろうとさえしなかった。言葉など所詮、今のこの場では薄っぺらでしかない。ということなど、二人とも分かりきっていた。
「いやあ、参った」
「参りましたねえ、ホンマに」
伊藤も、森下も、彩も、誰も声を発していない。
伊藤と森下の二人は、声の聞こえた方向へと振り向いた。
二人の視線の先には、男性二人とそれに寄り添う二人の女性がいる。
男性の一人はぼさぼさの黒髪に無造作に伸びた髭から五十代前後の中年だということが分かる。もう一人は黒がまだらに顔を見せる茶色い髪に肌は小麦色に焼けて、首や耳には金のアクセサリーをしている。年齢は二十代前後というところか。
衣服や容姿といった風貌は明らかに世代が違う二人だが、ギプスや三角巾、体の至る部分に包帯を巻いていることだけは共通していた。
「あんた、大丈夫?」
一人の女性は目尻に皺があり、体型は太目。寄り添っていた中年男性とほぼ同じ世代の人間なのだろうか。だとすれば、発せられた言葉は夫を気遣うものなのだとも推定できる。
「お兄ちゃん」
もう一人は背格好からも少女だと、更にブレザーにスカートという格好から学生ではないかとも推定できる。お兄ちゃんと呼んだ若い男性の、包帯を巻かれた腕を優しく触る。
その場から動くでもなく、二人は男性たちの会話を聞いていた。
違う。聞きたくもないのに、鉄砲水の如くそれらが勝手に自分たちへと押し寄せていた。
普通に仕事で山道をトラックで下りていた時のこと。対向車線に一台のバイクが猛スピードで爆走してきた。バイクを避けようとするも間に合わず、遂には運転手諸共撥ねてしまった。自分たちは比較的軽傷で済んだが、相手のバイクはガソリンに引火し炎上。さらに運転手もその業火に巻き込まれてしまった。
これが、今男性たちの間で交わされている会話の要約だった。
かなり端折っているかもしれないが、二人にはこれだけ入ってくれば十分だった。
それからの内容は、トラックはまだ動けるのか、利き腕の右が駄目になってしまった、怪我が生活に支障を来さないか等と自分たちには正直どうでもいい話だったから。
「何にしても生きててよかったよぉ」
話に出てきたトラックの運転手である中年男性に寄り添っていた女性が言う。
――僕たちだって、それを言いたいのは同じなのに。
体が震える。直立不動で相手を睨むことしかできなかった。
「でもあれ、相手のバイクも悪いんじゃないスか?」
無事だった左手で髪を掻きつつ、もう一人の運転手である若い男性が言った。
――何言うてん。何でお前らが鞭打ちや骨折だけで助からなアカンねん。
徐々に沸き上がる思いを、右の拳を堅く握り締めて抑え込む。
その後も助かってよかった等という会話が繰り広げられる。笑い声さえ聞こえてきた。
腹の立つ。
「もしかしてあれ、当たり屋なんとちゃう?」
話の中で不意に放たれた一言は、二つの膨らみ切った風船に針を突き立てるものとなってしまう。
「あー、あのバイク、わざとぶつかってきましたもんねえ」
「えー? じゃあ慰謝料取られるかもしれないってこと?」
「でもうち、そんなお金ないわよ?」
「けどこの怪我である程度相殺できるんとちゃう?」
――言いたい放題言うてくれるやんけ。
「もしかしたら相手は大した怪我してないんじゃないの?」
「ま、当たり屋っスからね。当たり屋が死ぬほどの大怪我を負うなんてそれこそマヌケっスよ」
「せやなあ」
遂には四つの大爆笑が廊下に木霊した。それは明らかに、今は手術室の中で生死の境をさ迷っている彼への嘲笑。
風船は破裂する。怒りは抑えられない。
「貴様らぁっ!!!!!!」
血気にはやるままに、伊藤は固く握り締めた拳を突き出した。天をも崩壊させそうなほどの大声と突き出された拳、地獄の鬼のような形相に男性たちは恐怖に戦いた。
「伊藤さん!」
それを近くにいた森下が止めるも、腕力では到底敵わない。
伊藤の、丸太と見間違うほどのがっしりとした硬い腕。森下の比較的標準に筋肉のついた腕。力ではどちらが勝るかなど火を見るよりも明らかだった。
当然森下には止められず、拳は今まさに中年男性の頬を捕えんとしていた。が、その拳は僅か一センチを前に止められてしまう。
中年男性の怯えた顔ではない。自身に僅かに残された理性ではない。
怒れる拳を止めたのは、少女のわあわあと泣き叫ぶ声だった。
「どうして? どうしてこんなことになっちゃったの?」
膝をつき、両手で顔を覆い、溢れ出て止まらない涙を抑える。
「どうしてこんなことになっちゃったの!」
彩は泣き叫んだ。伊藤とは違う、心にズンと響く力強さを秘めた声をあげて。
「どうして? ねえ、どうしてよ? どうして? どうして!」
自分のありったけの思いを、答えがあったとしても誰も答えることのできない問いかけを。
「どうして……」
やがて言葉が支離滅裂になり、遂にはただただ泣くだけの子供のようになってしまった。
泣き叫ぶ彩に、伊藤も森下も、何も声をかけてやることができなかった。気休めの言葉など、今の彼女には残酷極まりないような気がして。
男性たちはいつのまにかいなくなっている。否、逃げたというのが一番正しい表現か。
再びこの場を重たい沈黙が包み込む。気まずい。
彩はまだ泣き伏せている。とっくに枯渇していてもおかしくは無いのに、何が彼女の涙を絞り出しているのだろう。
機械音も、ばたばたと走りまわる足音も、もう聞こえない。少女のすすり泣く声だけが伊藤と森下の聴覚を刺激する。
もう、何をする気力も無い。二人はただベンチに腰掛けるだけでぽかんと蛍光灯を見つめるだけだった。
伊藤は目を閉じ、ただ一つ思い浮かぶ言葉に集中する。
――早くこの場から逃れたい――
そんな彼の集中力を一つの足音が乱す。不機嫌になりながら今度はそれに意識を向ける。
足音の正体は(先程輸血を求めてきたのとは違う)看護師だった。
「あの、患者のことなのですが……」
一流の職人に作られた面のように表情が堅い。その口から放たれる事実は何か。
「手術の結果……」
これ以上事態が悪い方向へ行かないというのなら、森下も伊藤も全てを受け入れるつもりだった。彩はもう泣いてはいないが顔を床に直につきそうなほど伏せていた。
「一命を取り留めました!」
二人は一斉に立ち上がり、やったと大声を出す代わりにハイタッチをする。そして、伊藤はよっしゃとガッツポーズをする。
「彩ちゃん……!」
森下はまだ床に顔を伏せている彩の肩をポンと叩いた。叩かれたことに気付かないのか、まだ許容量の余裕が無いのか、顔を上げる様子は無い。
「彩ちゃん、高山さん助かったって!」
高山は助かった。その文の意を解することのできた彩は、涙の痕がくっきりとついた頬を上げて森下を見る。
「そう、助かったんやて!」
あまりの嬉しさに、まず始めに明るい顔を見せ、次に森下に抱きついた。森下もまた軽く二、三回うなずき彼女の肩をそっと抱く。
彼女は泣いた。先程とは違う感情が篭められた涙が、痕をなぞる様に伝う。
「よかった。よかった……」
重たい空気はもうない。そこには、伊藤にとっては後輩の、森下にとっては先輩の、そして彩にとっては大好きな彼の、生還を心から喜ぶ笑顔だけがあった。
◆
「手術は成功しました。今は意識が眠っていますが、患者はじきに目を覚ますでしょう」
執刀医のその一言と共に、ミイラの如く包帯を巻かれ静かに眠っている高山は一室へと移された。
伊藤も、森下も、彼に血液を提供した藤井も、そして彼の身を一番に案じていた彩も、恐ろしいほどの静寂が包み込む病室で『じきに』を待ち続けていた。
ベッドに接した壁の窓からは二月の冷たい風が吹き抜け、カラメルの如く黒髪が顔を覗かせる金髪を撫でていく。
伊藤は覗き見た。高山の、モデルとして評判のすっきり整った小さな顔を。
事故の報せを受け、一番に病院に駆けつけたのは伊藤だった。
まさか、自分の可愛がっていた後輩がそんな目に遭うなんて。
半信半疑のまま、伊藤は指定された病院へと辿り着いた。
そこには、手術室へと運ばれていく高山の姿があった。
テレビのドキュメンタリー番組でよくある光景。それが今、現実として目の前にあるなんて。それの主役とも言うべき存在に、高山がいるなんて。
伊藤にはまだ信じられなかった。
それ故にちらりと見えた、高山から思わず目を背けてしまった。
全身に凄まじいほどの火傷を負い、金髪の半分以上が燃え、皮膚はどろりと剥がれ落ち、肉が剥き出しになり、出血量は半端なものではない。まるで、どこかで見た怪物のようであった。
あの高山を、見ず知らずの他人に『これが高山だ』と紹介できるだろうか。
否、できない。自分ですらあれを認められないのに。
それ故に、手術室前の廊下ではいつも通りどっしりとした、頼れる先輩の自分を演じていたものの本心は逃げ出したい気持ちで一杯だった。
それが、手術でここまで治るなんて。金髪は僅かにしか残らなかったものの、ここまで治るなんて。自慢の、ファンの女の子からも人気が高く、そしてモデルにとって最大の商売道具である顔には殆ど傷が見られない。奇跡としか言えない。
――もう一度奇跡を起こしてくれ――
伊藤は、自分の心に今あるただ一つの言葉に集中する。
「……の?」
そんな彼の集中力を、声が乱す。声がした方へと視線を向ける。
「『じきに』っていつなの?」
誰に問うでもなく、彩が吐き出していた。
恐ろしくて、誰も口にできなかった疑問。
それを、彩は弱々しくも吐き出していた。彼を想うが故か。
当然誰も答えられるはずもなく、ただただ気まずい沈黙だけがその部屋に残る。
それまで虚ろな光を宿していた目を閉じ、彩は高山の手を握った。
長身の体に相応しいほど大きくて、でも生気が全く感じられないほどに冷たい手。それに彩の小柄な体にしっくりくる小さな手が重なる。
「あー……その……こんな状況で言うのもなんやけど……」
椅子にも腰掛けず、立ったままの藤井が不意に口を開いた。
「俺、十三時から仕事が入ってるんです、よね……」
逃げるんか? 伊藤は声には出さず、藤井を睨んだ。筋骨隆々の体格に相応しすぎるほどの力強さを秘めた瞳の威圧に、藤井は蛇に睨まれた蛙の如く戦いてしまう。
が、次の瞬間にはもう愛想笑いを浮かべながら後退りし、部屋から出ていってしまった。失礼しました、という無感覚な言葉を一応残して。
伊藤は溜息を強く、一回だけ吐いたがすぐに視線を彩へと戻す。
手は重なったままだが、目は開かれている。その瞳に吸い込まれていくものは何か?
静かに眠り続けている大好きな人?
目の前にただ広がっているだけの現実?
こうして手を握ってあげることぐらいしかできない不甲斐なき自分?
「伊藤さん」
自分の名を呼ばれ、右肩をポンと叩かれ、その方向へと振り向く。
この部屋に重い空気と共に残されたもう一人、森下だった。
何が彼の右手を動かしたのだろう。その無言が訴えているのは何だろう。
何となく分かるような気がする。自分も同じ思いに満たされているから。
二人は一斉に、しかし物音を立てぬよう静かに部屋を出ていった。伊藤は扉に手をかける前に一度だけ、彩と高山の姿を見て。
見上げれば青い空。見るのも腹立たしくなるほど清々しく晴れた空。
二人は病院の、屋上のベンチに腰掛けていた。伊藤は火の付いた煙草を片手に、森下は手持ち無沙汰に。
屋上へ来て何が解決するでもない。ただ、あの場から逃げられればどこでもよかった。
ふうっと煙を吐き、昇り行く天を見る。しかしそれも、すぐには見えなくなる。
気まずい。やはりそれは、どこでも一緒なのか。
「俺は」
気がつけば伊藤は口を開いていた。森下は黙ってそれを見る。
「蔑んでくれてもええ。俺は卑怯者や」
森下も、言葉を発した伊藤も、全く表情を変えない。
「そう。俺は頼れる兄貴なんかやない。ナルシストの卑怯者や……」
最後の方は弱々しく、天を仰ぐ姿勢のまま、伊藤は目を瞑った。
煙草の灰は、落ちそうになっている。
森下は何も言わず、天を仰いだ。
一方、あの部屋では。
小さな手と冷たい手はまだ、重なり合っている。
否、たとえ誰の邪魔が入ろうとも離すことなどできないだろう。
「高山さん」
少女は大好きな人の名を呼んだだけで、黙った。