寒い。寒さだけが彼の体を刺激していた。

 ここは、どこだ?

 目の前は真っ暗。足下には道がない。

 ただ一つ分かっているのは、今自分は一台のバイクに跨っているということだけ。

 途惑っていてもしようがない。

 ドルゥン、ドルゥンとエンジンを吹かし、彼はバイクを前進させることにした。

 バイクが動き始めた途端、それまでなかった道がまるで手に取るように彼には分かった。

 どこへ繋がっているのだろう。どこへ行こうというのだろう。

 そんなことは彼にとって、もはやどうでもいいことに成り下がっていた。ただひたすら前進あるのみ、だった。

 暗闇の道を走る。寒風を切り裂くのはエンジン音だけ。無機質な音だけが、この場を支配する。彼もまたその意のままに操られる、人形と化していた。

 どこまで進んだのだろうか。そんなことはどうでもいい。

 不意に目の前に、大きな光が現れた。それはとても大きく、自分などとても比にもならない。

 暖かで、冷たく、明るく、暗い光。

 光は徐々に大きくなっていく。止められない。

 闇を、道を、バイクを、彼を――それは、全てを虜と成していった。

 

 

 無機質で冷たい機械音だけが聞こえてくる。

 ――何故、自分はここにいるのだろう。

 彩はひたすら答えのない、あっても見つかることは永遠に無いであろう問題にぶち当たっていた。

 ――何故、こんなことになってしまったのだろう。

 そばには神妙な面持ちの男性が三人もいる。頭を項垂れた彩が面を上げた位置に『手術中』と書かれたランプがある(彩自身にはそれが点っている様子を見る余裕もなかったようだが)。

 ――分からない。何故? 何故? 何故何故なぜなぜナゼ?

 男性たちはひたすらに、目の前の扉を、点っているランプを凝視していた。否、それしかすることを許されなかった。もどかしい気持ちで一杯だったのは、この場にいる全員共通のことであった。

「あ、あの、すいません!」

 そこへ慌てた表情の看護師が、扉の一番前で直立不動となってしまった彩を突き飛ばした。身に纏った衣服の至るところに真っ赤な血が付着しており、中での行為の壮絶さを物語っている。彩に謝る様子も無く、看護師は男性たちへと口を開いた。

「患者の予想以上に出血が多くて、その、輸血が必要なんです!」

 男性たちは揃って看護師を見ていた。彩は突き飛ばされたまま、動かない。

「誰かこの中で患者と同じ血液型の方はいらっしゃいませんか?」

 男性三人は皆揃って顔を見合わせた。中にいる彼の血液型を再確認する為に。

「確かあいつ、A型やったよな?」

 その中でここへ来てようやく、一番長身で筋骨隆々な黒髪の男性、伊藤が口を開く。それに他の二人も同意を示した。

 次に、同じく黒髪ではあるが伊藤より背は低い(それでも長身の部類には入ったが)男性、藤井がちらりと彩を見る。彩にはどうやら看護師の言葉はもちろん、全てを受け入れる余裕ができていなかったようだ。体が小刻みに震えているようにさえ見える。

「俺、A型です!」

 名乗りをあげた藤井は看護師の後ろをついて走る形で手術室へと入っていった。

 実は彩も看護師の提示した条件、A型の血液を持っていた。しかし今の彩には看護師の話を理解する能力はもちろん、いくら大好きな彼の為だと言え輸血をしてやれるほどの精神的な余裕も残されていない。そこで事情を察し、彼女を思いやり更に条件にも合う藤井が名乗り出たのだった。

 ――あいつの為に何かしてやりたいのは俺らかて同じや。それなのに。

 二人はもどかしい思いを抱いたまま、中へ入っていく藤井を見ているしかなかった。

 

 

 藤井が手術室へ入ってから、そもそも自分たちがここへ来てからどれだけ経ったのだろう。

 もう、そんなことは誰にも分からなくなっていた。

 伊藤は手術室前のベンチに腰掛け、項垂れた頭や頬杖をつく手が『考える人』を模写したも同然の姿へと変えていた。ここにいるもう一人、一番背が低く(やはり長身の部類に入る)茶色い髪の男性、森下は腰掛けるでもなく立ったまま、同じく頭を垂らして時間の経過を待ち続けていた。

 そんな中、立ち位置も格好も、全く変わっていないのがただ一人。

 彩だった。

 彩は直立不動に、体も小刻みに振わせ俯いたまま動かなかった。動こうとしなかった。

 森下はそんな彼女が気掛かりでちらちらと見ていたが、居た堪れなくなりついには行為すら止めてしまった。再び頭を垂らす。

 

 

 それまでは、なんてこともなく普通にチョコクッキー作りをしていたのに。

 明日は女の子にとって大切な日。それだけにこのチョコクッキーに普通のお菓子作りよりも気合と愛情を込めていた。エプロンの紐を結ぶ手にも力が入る。

 手本通りに生地を作るところから念入りにこなす。材料を混ぜるという単純作業一つにも真心を込める。生地をふんわりさっくりするまで混ぜる。彼のことも考えながら、丁寧に。

 その時、不意に電話が鳴った。それが彼女の調子を狂わせ、今までの猛練習で叩きこんだ手順さえも忘れそうになってしまう。

「はい、藤崎です」

 煩わしい、いつもなら抱かない感情と共に彼女は生地入りボールを片手に携帯電話を取る。

「あ、彩ちゃん! 僕です、森下です!」

 電話の相手である森下は若手の男性モデルで、彼女の甘いもの食べ歩き友達でもある。

「森下さん、どうかしたんですか?」

 彼女が何故今お菓子作りをしているのか。電話の向こうの森下もそれを熟知しているはずなのに。それを考えれば考えるほど今の電話が煩わしくなり、返答もぶっきらぼうになってしまう。

「彩ちゃん、落ち着いて聞いて!」

「落ち着いてますよ。で、何ですか?」

「高山さんが、高山さんが……!」

 電話の向こうの声に紡ぎ出された事実。それは彩の表情を一瞬にして凍り付かせ、体中の力を一気に抜き取ってしまった。ボールが床に落ち、クッキーの生地が足下に散乱する。

 次の瞬間、彩は生地で汚れたフローリングを勢いよく蹴り走り出していた。通話状態のままの携帯を片手に。二月の寒空の下で、コートも羽織らずセーターとエプロンだけで駆け出す彼女の姿は好奇そのものと言えただろう。

 だが今の彼女には形振りを構う余裕など無かった。わき目も振らず目的だけに一心不乱に突進する猪そのものと言える。

 彼女は走った。呼吸も忘れてしまうほどに。頭の中にあるのは、そして受け入れられるのはただ一つ、大好きな彼の姿だけ。

 一心不乱に彼女が駆け込んだ、大好きな彼のいる場所。それは――病院だった。

 手にしている携帯から一寸前に紡ぎ出された事実が、手術室へと走る彩の脳裏を掠める。

 

「高山さんがトラックに撥ねられて、意識不明の重体に陥ってしまったんです!」